甘いささやき(訳詞付) / アラン・ドロン & ダリダ
この薬は効くと、信頼する人から言われて飲むと、たとえその薬がたんなるメリケン粉であっても、効果がでると言う。
世界は自分の脳がつくりだしている。
信念こそがその源だとも思う。
dragonflyの尼さんが言う、信じたことでこの世はつくられている。
たしかに、この机の上の「ボールペン一本」にしても、この記事を書いている「パソコン」にしても、
昼に食した「豆カレー」にして、この狂ったような暑い夏のせいで飲む冷たい水のはいった「コップ」も、一度は、人の頭のなかで、「考えられた」コトが、モノに、変容したのである。
この地球上のすべての人工物は、一度、人の頭のなかで考えられたからこそ、今、ここに「在る」。
これは不思議なことだと思う。
思うことは実現する。そのことだとも思う。
聖書のなかの、信じるものは救われるという言葉の意味をみな取り違えている。
それは、キリスト教団体に入れば、宗教団体に入れば、気持ちが楽になって、魂が救われるという意味だけではないのだと思う。
だれしも、一次元高いところに、住む人の言葉を誤解する。
言葉を分析するのではなく、「感じる」ことをしなくてはいけないと思う。
かつて、私はこんな記事を書きました。
三島由紀夫の「文章読本」を読んでいて、おやっと惹かれ、そしてこんなことを彼が書いているのだなあという記述がありました。
彼一流のユーモアと皮肉で、「僕の登場人物は本など読まない」とか「本をわざわざ買って読んでも不安を買わされるみたいなものだ」とか言うような、文を書く人なので、皆だまされちゃうんですよね。
素直で純朴な男が好きなのに、そのような文章は書かないというか、不思議ですね。
三島さん曰く。
「チボーデは、小説の読者を2種類に分けております。ひとつは、レクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他のひとつはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説と言えば何でも手当たり次第に読み、「趣味」という言葉の中に内包される内的・外的のいかなる要素によっても導かれない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大半はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは、「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。
リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど、小説を深く味わう読者のことであります。実はこの「文章読本」を、今まで、レクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思って始めるのであります。」
そして彼はここまで書いております。
私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。
私は、リズールでありたいと願います。
というよりも、私の頭のなかの思い出の半分が、実体験の思い出だとすると、もう半分くらいが、映画・音楽・文学・マンガ・絵画・の作者・主人公・そして作品そのものです。
このふたつが拮抗しています。
もう、この場合、どちらがバーチャルで、どちらが、リアルかわからないくらいに。
それで良いと思っています。
若き頃に見た、アラン・ドロンのシネマの数々を夢見、白い恋人たちでかなでられる人類の華麗なる肉体美と、精神の緊張の闘いに酔いしれ、死刑台のエレベーターに登場するジャンヌ・モローの魅惑を感じ、淀川さんも絶賛した、髪結いの亭主の映像美に、覚醒される時間と空間。
それで良いと、思っています。
白い恋人たち。
死刑台のエレベーター
髪結いの亭主
↧
非日常とは・・・・映画のなかの男優・女優たち
↧