有名なる映画。監督はリュック・ベンソン。
彼がどうして死んだのか、ふと気になる。
人間の心理。
自分の心でさえ、わかるはずはないですね。
わからないということがわかるだけでも、心理学者よりはまし。
三島由紀夫氏が自決した時に、時の佐藤首相でさえ三島由紀夫氏を「狂人」扱い。
そんなマスコミやら、世間の白い冷たい目のなかで、小林秀雄氏のインタヴューには涙。
彼曰く。
「三島由紀夫氏のような心理学にたけた人間でさえ、自分の心のなかは透明とはいかなかったのだろう」
少しニュアンスは違うかもしれませんが、そのようなことをつぶやいていました。
続けて。
「そうでなければ、この私を涙させるはずがない」とも。
自分の心がすべて読めるという人。
他人の心がすべて透けて見えると思い込んでいる人。
実は、まったく人間がわかっていないのかもしれませんね。
資料
ジャック・マイヨール(Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日)は、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリア・エルバ島没。
4歳の時、母親に初めて水とのつき合い方を教わる。10歳の時に、佐賀県唐津市の七つ釜ではじめてイルカと出会い、その後の生活の原点となる。12歳で一家でフランス・マルセイユに移住。17歳で父の設計事務所で働きながらバカロレアを取得。高校を出ると北極圏でイヌイットと暮らすなど、以後コペンハーゲンを起点に旅を繰り返す。
22歳の時、ヴィブケ・ボージュ・ワズショルドと間に長女ドッティをもうける。正式な結婚は後の25歳の時、コペンハーゲンにて執り行われた。その後水夫としてカナダ・アルバータ州、アメリカ・マイアミに移住。その間、レポーター、ジャーナリストとして働き、長男ジャン・ジャックが誕生する。 フロリダではフランス語系新聞の手伝いやラジオ番組のリポーターを務めながら、マイアミ水族館で働く。そこで1957年にイルカの調教を担当したことから水中での泳ぎ方などを体得。
その後水族館をやめてカイコス諸島に移住し、素潜りによる伊勢エビ漁を島民に教える。その頃になると周りの勧めでフリーダイビングに挑戦するようになり、1966年にハバナにて60メートルを記録したのを皮切りにエンゾ・マイオルカと共に記録合戦を繰り広げた。1973年、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある。1976年11月23日、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。
1983年、母親の葬儀に参列するためにマルセイユに行った折にリュック・ベッソンと出会う。1988年、自伝をもとにした映画「グラン・ブルー」が同監督により製作され、世界中の人にその存在を知られる。
1989年マルセイユ出身の女性編集者ジャンヌ・ラフィットと結婚し、本をいくつか出版する(そのひとつが『イルカと海に帰る日』である)。
大の親日家であり、フリーダイビングにヨーガや禅を取り入れていた。千葉県館山市坂田に別荘を設けている。1995年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組「いのちの響」に出演したことがある。1997年の秋には27HOUR SPECIAL CHALLENGE 97内で放送された「イルカが海に帰る日 ~ユキよ、自由の海を泳げ~」のスペシャルゲストを担当した。
ダイビングの第一線から引退した後は、イルカと人間との共存を訴えた。晩年はうつ病を患っていた。2001年12月22日、イタリア・エルバ島の自宅の部屋で首吊り自殺をしているのが発見された。遺体のそばのテーブルの上に、「グラン・ブルー」のビデオと、直前に出演したテレビ朝日の「グレートマザー物語」のビデオが置いてあった。彼の自殺直前の状況については、兄ピエールの『ジャック・マイヨール、イルカと海に還る』(ISBN 4062119587)に詳しい。
遺骨はトスカーナ湾に散骨された。
マイヨールの記録[編集]
1966年 : 60 m
1976年 : 100 m
1983年 : 105 m(55歳にて)Esquire (エスクァイア) 日本版 2006年 08月号 [雑誌]/エスクァイア マガジン ジャパン
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ジャック・マイヨール エルバ島の最後の日々
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