パットメセニー
資料
1954年8月12日、カンサス・シティ、リーズ・サミット生まれ。13歳でギターを独学で始める。
1972年ゲイリー・バートンのコンサートの際、メセニーは彼の楽屋に行き、自身の演奏を披露しバートンのグループの加入を願う。バートンはメセニーの実力を認め、彼の推薦で18歳でバークリー音楽大学の講師を務めた。
1974年、ゲイリー・バートンの『リング』でレコーディング・デビュー。
1975年にジャコ・パストリアスを迎えて発表した初リーダー作『ブライト・サイズ・ライフ』をECMで発表しソロ・キャリアをスタートさせた。
1977年にバートンのグループを離れセカンド・アルバム『ウォーターカラーズ』を発表。このアルバムで共演したキーボディストのライル・メイズらと"パット・メセニー・グループ"を結成、1978年に『パット・メセニー・グループ(旧邦題:想い出のサン・ロレンツォ)』を発表。オリジナルメンバーはライルに加え、マーク・イーガン、ダン・ゴッドリープ。以後『アメリカン・ガレージ』(1979年)、『オフランプ(旧邦題:愛のカフェ・オーレ)』(1981年)、『ファースト・サークル』(1984年)を発表する。
1985年に自主プロダクション、メセニー・グループ・プロダクションを設立し、配給レーベルをゲフィン・レコードと契約。この頃にはブラジル音楽の要素を取り入れた、『スティル・ライフ』(1987年)、『レター・フロム・ホーム』(1989年)を発表し、ヒット作を次々と生み出す。
1997年にワーナー・ブラザーズ・レコードと契約。しかし、2004年にはワーナー・ミュージック・グループの大幅な改編に伴いワーナー・ブラザーズ・レコードはジャズ部門を閉鎖、同グループのノンサッチ・レコードに移り契約。ゲフィン期のディスコグラフィをリイシューし始める。 2008年、ECM期のディスコグラフィをSHM-CD仕様でリイシューして発売した。この時は、初回限定盤だったが、2011年に廉価版として再発された。
2010年には新ソロ・プロジェクト「オーケストリオン・プロジェクト」を開始。これは、19世紀末から20世紀初頭に実在した、オーケストラ等で使用される楽器を自身のキューによって同時演奏することができる機械仕掛けである。これを用いた世界ツアーをし、11月にニューヨーク州ブルックリンにあるセント・エリアス教会で2日間収録したものは2013年に映像化と音源化された。
2012年にはクリス・ポッター、ベン・ウィリアムズ、アントニオ・サンチェスと新バンド、ユニティ・バンドを開始した。2013年には作曲家でサクソフォニストのジョン・ゾーンの楽曲集"BOOK OF ANGELS"の2集目となる"Masada Book"の楽曲を取り上げたTap: Book of Angels Volume 20を発表。ノンサッチとジョンの自主レーベルからジャケット・仕様違いで発売されている。これはほかのミュージシャンも取り上げているシリーズの20集目となる。
ブラジル音楽からの影響[編集]
メセニーは若い頃よりミルトン・ナシメントやロー・ボルジェス、トニーニョ・オルタ等のブラジル音楽に興味を持っていた。オルタとは1980年にブラジル公演に来た時に女性ギタリスト、セリア・ヴァスの紹介で出会う。彼とは意気投合し、レコーディング中のオルタの1980年発表のセカンド・アルバム『トニーニョ・オルタ』に2曲参加。メセニーは自分の家にオルタを招くほどに仲良くなり、オルタのアメリカでの録音による1983年の『ムーンストーン』にも参加。[1]そして、彼はECMを離れた後の1987年に予てより望んでいたブラジル音楽に影響された、『スティル・ライフ』や『レター・フロム・ホーム』を発表することとなる。
資料2アンナ・マリア・ヨペック
アンナ・マリア・ヨペック (ポーランド語:Anna Maria Jopek)は、ポーランドの音楽家、歌手。作詞家、作曲家、音楽プロデューサーでもある。これまでにポーランドのゴールドディスクを9回、プラチナディスクを7回獲得している。
1970年12月14日、ワルシャワ生まれ。音楽一家に生まれ育つ。父親のスタニスワフ・ヨペックは元マゾフシェ舞踏団の花形ソリスト。母親のマリア・スタンキェヴィッチ・ヨペックは元マゾフシェ舞踏団の歌手でダンサー。妹のパトリツィアは現役のバイオリニスト。ワルシャワの名門ショパン音楽アカデミーで学ぶ。卒業後はニューヨークにあるマンハッタン音楽院でジャズを学ぶ。
1997年アルバム『Ale jestem』でデビュー。2000年にインターナショナル盤『Barefoot』で国際的な活動をスタート。その後も2005年に『Secret』、2008年に『ID』をインターナショナル盤で発表。2002年にパット・メセニーとのコラボレーションアルバム『Upojenie』(ポーランド国内盤)を発表し、2008年に同作品のインターナショナル盤をリリース。
これまでにコラボレーションした主なアーティストは、ブランフォード・マルサリス、オスカー・カストロ・ネヴィス、ボビー・マクファーリン、ユッスー・ンドゥール、 ナイジェル・ケネディ、 クリス・ボッティ、小曽根真、リチャード・ボナ、ミノ・シネル、クリスチャン・マクブライド、ギル・ゴールドスタイン、ゴンザーロ・ルバルカバなど。
世界各国で公演を行っており、日本でも度々コンサートを行っている。
資料3ポーランド料理
ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。ポーランド固有の料理は少ないが、中世から近世のポーランド王国はポーランド人のほかに東欧系ユダヤ人・チェコ人・ハンガリー人・ドイツ人・リトアニア人・ラトビア人・ベラルーシ人・ウクライナ人・スコットランド人・アルメニア人・タタール人(リトアニア・タタール人)などで構成される多民族国家だったため、周辺のあらゆる民族の食習慣を取り入れて独自の食文化を構築しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである[1]。19世紀に現在のポーランド料理の原型ができたと言われている[1]。
過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし朝食と夕食は軽く済ますのが伝統だが[2]、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。
大抵のポーランド人は自分の母親の作る料理こそ世界で一番おいしいと考えているが、近年は徐々に外食の習慣も広まり、レストランで食事を取ることも多くなってきている[注 1]。さらに、レストランで出されるポーランド料理はフランス料理の要素を取り入れ洗練したものである。一方、その反対にわざと田舎風にしたポーランド料理を出すレストランもあり、これもまた人気がある。都市部ではポーランド料理に限らず、世界各国の料理を食べることができる。
なお、以下で太字になっている料理名は画像がある料理である。
ポーランドには、肉料理を中心に長時間煮込む料理が多い[1]。脂肪分が比較的多く、周辺諸国に比べて薄味なのも特徴である。中世の昔、ポーランド王国ではアルメニア人商人による東方陸上交易により他のヨーロッパ諸国に比べてコショウ(ピェプシュ pieprz)が非常に安く手に入った。そのため肉料理にはコショウがふんだんに使われている。肉料理にはショウガ(インビル imbir)やニンニク(チョスネック czosnek)、各種ハーブ(ジョワ zioła)も多く使われる。
ジャガイモ(ポーランド語でジェムニャク ziemniak あるいはカルトフェル kartofel)はポーランド人の主食といえる。また、ライ麦の栽培はポーランドの寒冷な気候に適していることから、ライ麦粉と小麦粉を混ぜて使った、香りと少々の酸味があるパン(フレプ chleb、あるいはフレペック chlebek/パンちゃん)は種類が豊富で、よく食べる。精白した小麦粉で作る白パン(ブウカ bułka)も種類が多いが、フレプほど頻繁には食べない。ソバの実(カーシャ・グリチャナ kasza gryczana)や米(リシュ ryż)を茹でたもの、ジャガイモのダンプリング/団子(ピズィ pyzy、オーストリアではクヌーデル、チェコではクネードリキと呼ぶ)もよく食べる。
ポーランド人は奇妙なほどゆで卵(ヤイカ jajka またはヤヤ jaja)が大好きな民族で、スープ(ズッパ zupa)やサラダ(サワトカ sałatka)の具などとして頻繁に出てくる。また、ゆで卵は復活祭の正餐には欠かせない食べ物である。
またポーランドの人々は伝統的に乳製品を非常に好み、独特の製法でさまざまなチーズを作るが、古くは7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されている[3][4]。
キシュケ
人造ケーシングに詰めたユダヤ風キシュケ
キシュカまたはキシュケ(ポーランド語: Kiszka, ロシア語: Kishka, ウクライナ語: кишка kyshka, イディッシュ語およびヘブライ語: kishke)とは、スラヴ語で「臓物」または「腸」を意味し、転じてソーセージや肉のプディングの名ともなっている。
グレイビーソースをかけたユダヤ風キシュケ
東欧では、豚の腸に豚の血とオオムギまたは蕎麦の実を詰めて作られるブラッドソーセージの一種である。朝食に食べることが多い。なお、「キシュカを盗んだのは誰?」という有名なポルカの楽曲がある。
東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)のキシュケは、カーシェールな牛の腸に牛肉とマッツァー粉、シュマルツ、ニンニク、玉葱、香辛料などを詰めたものである。マッツァー粉の代わりに小麦粉を用いることもある。血はカーシェールではない(食のタブーを参照)ので用いない。キシュケの色はパプリカの粉末の含有量によって異なり、火を通すと灰色から赤褐色になる。近年ではシュマルツを植物油で代用したり、腸の代わりに人工ケーシングを用いることもある。カーシェールな家禽の首の皮から骨を抜き取り、キシュケと同じ詰め物を詰め、食べられる糸で縫い合わせたものはヘルツェル(Helzel)と呼ばれ、しばしばチョレントに加えられる。
キシュケはカーシェールな肉類を扱う肉屋やデリカテッセンで手に入る。イスラエルでは、ほとんどのスーパーマーケットが冷凍食品コーナーにキシュケを置いている。
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Pat Metheny & Anna Maria Jopek-Are you going wit
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