昨夜でしたか、渡辺淳一氏が亡くなりました。
昔はよく読んだものです。
彼は、エロ作家とか悪口をよく言われているようですが、私はそうは思いません。
もう晩年の彼は男や女という範疇を超えていましたね。
谷崎やらピカソやら永井荷風やら金子光晴のように清濁あわせ飲んでたくましく生きていました。
その意味では子供のような魂が誤解されたのだと思います。
今日は、彼の作品を思い返していました。
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彼の作品を思い起こしていると、シネマのクロード・ルルーシュ監督作品のことを
なぜか連想していました。
タイプはまったく違う監督さんなんですが。
男と女がいるからこそ、この世は楽しい。いや人類愛かも。
クロード・ルルーシュ監督の一番油の乗っていた頃の作品二作。
しかも、みずから作曲・シナリオ。
無名の作家がいちやく世界にはばたくきっかけとなった作。「男と女」
バツ1同士の大人の渋い愛情が実に軽いタッチでお洒落に描かれていました。
仏蘭西人は昼まっぱからワインを飲み、恋人同士がボルノ映画館で手を握り合いながらいちゃつく
お国柄。日本とは相性が良く中国とは相性はめちゃくちゃ悪い。
恋沙汰の事件はそれだけで刑が軽くなるとか。
恋の達人ぞろいの仏蘭西。日本は不倫は文化だとほんとうのことを言ったばかりにふくろだたきにあった俳優もいますが、仏蘭西人なら笑ってそのまますますでしょう。
揚げ足ばかりとる神経の細かすぎる日本人とは違い、人生を楽しむコツはラテン系の仏蘭西人ならではかな?
「パリのめぐりあい」も、不倫をキャンディス・バーゲンと楽しむ主人公が、最後はやはり不倫相手とはうまくいかなくなり、妻のもとへも帰れないということで、孤独になるのですが、最後のラストシーンで、妻がニコリと待っているシーン。
こんな妻ばっかりならば世の中の男性すべてが甘えてしまって大変になることは眼に見えていますが、めったにいない妻をやはりクロード・ルルーシュ監督はうまく描いていますね。
アニー・ジラルドが素晴らしい。そしてキャンディス・バーゲンの美しさ。
ところで、北海道出身の渡辺淳一氏。
彼が言うところの、「資料をもとにした時代劇やら歴史物は簡単に書ける。一番むずかしいし、誰もが書きたがらないのは恋愛小説だ」と豪語しているところが好きですね。
一番簡単そうに見えて一番むずかしいのが、実は恋愛小説。
「化身」はそのなかでも特に傑作でしょうか。化身(上) (講談社文庫)/渡辺 淳一
¥820
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良くも悪くも「男と女」が描かれているし、男の「教育好き」が描かれている。
かつて三島由紀夫氏は、「教育の本質はエロティシズムだ」と書きましたが、男は好きな女にいろいろ教えるのが大好き。そして、女は男に教えられることが大好きなのかもしれません。
これまた嫌われること多し林真理子氏は書いています。
(彼女の戦う人生、私は良いと思います。まさに嫌われ者の栄光です)
彼女いわく・・・・
「そもそも男にはあり女にはないものに「教えたい願望」がある。 異性を教育し、調教したいという心理は「源氏物語」の時代からすべての男性に共通しているようなものだ。女にはこれが全くといっていいほどない。」
続けて、「それでも昨今は、経済力がある女性の中に、若い男の子をいろいろと教育する者が現れたりするが、それを聞いても多くの女はうらやましがったりはしない。若い男を囲って、いろいろ仕込み、自分好みの男に仕立てたいと考える女性は何万人にひとりであろう。」
「それよりも女は仕込まれることを望む。年上の素晴しい男性に、贅沢さやセックスを教えてもらいたいと願う気持ちは、女がどれほど強く経済力を持つ時代になろうと関係ない。」
「化身」の女主人公が最後の最後に、見事に成長して、自分を教育してくれた男性を棄てるわけですが、「パリのめぐりあい」とは違って、妻も彼女も、完璧に彼を見捨てます。
その彼が最後に孤独になってパタリと寝床かどこかに倒れて放心?するシーン、いいですねえ。
育て上げ、教育し、美しくそだてあげた自分の愛人に最後は棄てられる。
しかしながら、後悔はしていない。
やることはやったし、自分はそれしかできないのだというプライドみたいなものもあるのかな。
現実はいつも、厳しく、甘くなく、これらの映画や小説のような男や女はなかなかいないでしょうから、だからこそ、映画や小説の中では、彼らの存在が優美に私たちに語りかけてくれるのかもしれません。
作品は歴史のなかに埋もれたる私たちの平凡なる日常生活に喝をくれて、その埋没する私たちに感動という命綱を投げ入れてくれます。
感動の涙や笑いや驚きのなかで、私たちは、辛い現実、退屈な現実を新鮮に感じる事が出来、不思議とまた明日も生きてみようと思うのかもしれません。
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男と女の恋というよりは もう 人類愛
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