シネマ「アマデウス」。何回見ても新しき発見があり、楽しめる。
いつも、彼を見ていると会田雄次氏の「バサラ」を連想する。
たしかに、世界遺産などを見ていても、たとえば、ピラミッド。
現代建築のような遊びのない合理的な機能的なだけのつまらない建築物とは違い、
破格の、想像を絶する、多数の犠牲を伴う、まったくの遊びのだけの、非合理の、
それら。
それを会田雄次氏はバサラの精神という。
恐らく、死と隣り合わせに壮絶に生きていた時代の精神。
モーツァルトの音楽にもそれを感じる。
遊びを突き抜けた遊びの精神。硬直した美を破壊する美。
天才の生活は、それらの評判に比較するとけっして豊ではなく、いつも貧乏だったけれど、
彼の頭と心のなかでは、美の花で渦巻く刻でいっぱいだったはずだと思う。
妻のコンスタンチェとの物語もまた、興味深い。
◎資料
初演は、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。また、ウィーンでの初演は1788年5月7日であった。
『フィガロの結婚』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒットし、作曲家が招かれることになった。モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品である。
初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人のドゥシェク夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲だけは未完成であった。彼は眠気を押さえるために妻コンスタンツェの話を聞いたり飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には写譜屋に草稿を渡せたのだという。
台本は『フィガロ』に引き続きロレンツォ・ダ・ポンテによった。ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者ドン・ファンの物語の主人公である。もっとも古い作品はティルソ・デ・モリナ(1630年)といわれるが、ダ・ポンテはオペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは石の客』(1787年)やモリエールの『ドン・ジュアン』(1665年)を参考にしたものと思われる。特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品からの影響は明らかである。
モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者がこの作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇の意味であるとする解釈もある。このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァンニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ取ることができるからであろう。
ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナンバーのいくつかを追加して上演することが多い。
日本初演は1948年12月14日、東京・帝国劇場において藤原義江、宮本良平、石津憲一、木下保ほかのソロ、マンフレート・グルリット指揮東宝交響楽団によって実現した。
演奏時間は第1幕90分、第2幕80分で、合計約2時間50分
登場人物[編集]
ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni(バリトン)
女たらしの貴族。従者のレポレッロの記録によると、各国でおよそ2000人、うちスペインですでに1003人の女性と関係を持ったという。老若、身分、容姿を問わぬ、自称「愛の運び手」。剣の腕もたち、騎士団長と決闘して勝つほど。
レポレッロ Leporello(バス)
ジョヴァンニの従者。ドン・ジョヴァンニにはついていけないと思っているが、金や脅しでずるずるついていってしまっている。ドン・ジョヴァンニから見ても美人の妻を持つ妻帯者だが、ドン・ジョヴァンニの「おこぼれ」にあずかり楽しむこともあるようだ。
ドンナ・アンナ Donna Anna(ソプラノ)
騎士長の娘でオッターヴィオの許嫁。ドン・ジョヴァンニに夜這いをかけられ、抵抗したところに駆けつけた父親を殺される。
騎士団管区長 Il Commendatore(バス)
アンナの父。娘を救おうとしてジョヴァンニに殺されるが、石像として彼に悔い改めるよう迫る。
ドン・オッターヴィオ Don Ottavio(テノール)
アンナの許婚。復讐は忘れて結婚するようドンナ・アンナを説得しようとするが、果たせない。
ドンナ・エルヴィーラ Donna Elvira(ソプラノ)
かつてジョヴァンニに誘惑され、婚約するもその後捨てられたブルゴスの女性。始終ジョヴァンニを追い回し、彼を改心させようと試みる。元は身分ある女性だったようで、ドンナ・アンナたちも圧倒されるほど気品に溢れている。ドン・ジョヴァンニが食指を動かすほど美しい召使を連れている。
ツェルリーナ Zerlina(イタリア語の発音ではゼルリーナ)(ソプラノ)
村娘でマゼットの新婦。田舎娘に似合わずコケティッシュでしたたかな娘。結婚式の最中にドン・ジョヴァンニに口説かれ、その気になる。
マゼット Masetto(バス)
農夫。ツェルリーナの新郎。嫉妬深く、ツェルリーナの浮気な行動にやきもきするが、結局のところ、尻に敷かれている。村の若者のリーダー的存在。
◎資料 コンスタンチェ
コンスタンツェ・モーツァルト(Constanze Mozart、1762年1月5日 - 1842年3月6日)は、作曲家、モーツァルトの妻。作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの23歳上の従姉にもあたる。コンスタンツェ・ヴェーバーとしてツェル・イム・ヴィーゼンタール(ドイツ語版)に生まれ、ソプラノ歌手であった。多くのモーツァルトの伝記において、コンスタンツェは、愛のない、不実な、不精な人物として描写されている。悪妻の一人とされているが、悪妻か否かについては後述する。モーツァルトの死後ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚した。ザルツブルクで没している。
目次 [非表示]
1 生涯
2 悪妻説
3 写真
4 脚注
5 参考文献
生涯[編集]
Constanze Mozart
両親はフランツ・フリードリン(1733年-1779年)とマリア・ツェツィーリア(旧姓シュタム、1727年-1793年)、姉はヨゼーファ(1757年-1819年)とアロイジア(1760年-1839年)、妹はゾフィー(1763年-1846年)。
モーツァルトとコンスタンツェは1777年にマンハイムで知り合った。モーツァルトが彼女の姉アロイジアに夢中になっていた時のことである。
モーツァルトが1781年にウィーンに引っ越した時、ヴェーバー家と再会した。アロイジアはその時には既に結婚していた。ウィーンでモーツァルトは、ヴェーバー夫人の「神の眼」館に部屋を借りて下宿した。その結果住居を移したことは世人の噂となったはずである。
モーツァルトは、コンスタンツェとの婚約を条件に、ヴェーバー夫人から交際を許された。その際、モーツァルトがサインさせられた約定書では、3年以内に結婚しない場合には違約金を支払うこととされていた。しかし、コンスタンツェ自身はその約定書を破り捨てた。
1782年8月4日に2人は結婚している。モーツァルトとの結婚生活の8年の間に6回妊娠し、その結果力を使い果たして寝たきりであったという。
ライムント・レオポルト(1783年6月17日-8月21日)
カール・トーマス(1784年9月21日-1858年10月31日)
ヨハン・レオポルト(1786年10月18日-11月15日)
テレジア(1787年12月29日-1788年6月29日)
アンナ・マリア(モーツァルトの母と同名)(1789年11月16日)
フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング(1791年7月26日-1844年7月29日)
これらの子供たちのうち、幼年期を生き延びることができたのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァー(モーツァルト2世)の2人だけであった。
モーツァルトの大ミサ曲 (K.427) は、コンスタンツェとの結婚の時期に作曲が始められた(1782年夏ごろから。未完成)。注文を受けたのではなく、モーツァルトが自発的に作曲したもので、ソプラノ独唱をコンスタンツェが歌うことを想定していたと言われる。「わたしのいとしいコンスタンツェのために (per la mia cara Constanza) 」と書かれたソルフェージュK.393が、この大ミサ曲と声楽技法的に関連性を持っているためである。実際に、この曲が1783年10月26日(または25日)に聖ペテロ教会で演奏されたときには、コンスタンツェがソプラノ独唱を行なった。
1789年、脚の病気にかかり、医師の勧めによって、以後毎年夏になるとバーデンに湯治に出かけた。モーツァルトは同行せず、妻に宛てた多くの手紙を書き、工面した費用を送金した。
モーツァルトの死亡した1791年、コンスタンツェは2人の子供の養育とモーツァルトの残した負債に独りで立ち向かうこととなった。家庭が大いに貧困に苦しんでいたのにもかかわらず、レクイエムの未完成の総譜を含む自筆譜をすぐには手放さず、1799年に音楽出版社ヨハン・アントン・アンドレに売却されたのが最初である。
さらにその10年後の1809年にコンスタンツェはデンマークの使節秘書・外交官であるゲオルク・ニコラウス・ニッセン(en)と再婚した。ニッセンと共にモーツァルトの最初の伝記を執筆した。1821年にこの夫婦はザルツブルクへ引っ越し、1826年にニッセンはそこで逝去している。
コンスタンツェの墓碑(中央)
晩年のコンスタンツェはドームにほど近いミハエル広場に面した住居に暮らし、1841年にはモーツァルテウムの設立にも関与した。1842年3月6日にコンスタンツェは没するが、ミハエル広場には同年9月4日にミュンヘンの彫刻家ルートヴィッヒ・シュヴァンターラー(Ludwig Schwanthaler)作のモーツァルト記念像が立てられ、その後モーツァルト広場と命名された。
コンスタンツェの墓は、ザルツブルク新市街の聖セバスティアン教会にある。同じ墓にはモーツァルトの父であるレオポルト・モーツァルト、2番目の夫ニッセン、姉アロイジアも眠る。
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W. A. Mozart: Don Giovanni (La Scala, Milano 201
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