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岩見沢市教育大学コンサートをふりかえり

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岩見沢市教育大学コンサートをふりかえり・・・

プロのクリップで聞き直してみることにした。学生の演奏はみずみずしく、新鮮。だからこそ、プロの演じるその曲をもう一度、比較してみました。^^

楽譜、音楽の解釈の違い。世界観の相違。きっとおもしろいのではと。

(結果は、最高にわくわくするほど、楽しかったです。)

 

 

★マスカーニ  「友人フリッツ」  「わずかな花を」

 

 

 

 

★グロンダール 「トロンボーン組曲」

 

 

 

 

 

 

 

 

★ラウタヴァーラ 「エチュード集」

 

 

 

 

 

 

 

 

ラウタヴァーラその2

 

その3 光の天使

 

 

 

 

 

★レオン・カヴァッロ

「道化師」

 

 

 

 

 

次なるは、コープランドの「クラリネット協奏曲」

 

 

★ラフマニノフ  「ピアノコンチェルト」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、休息でした。トイレへ行って、エコノミー症候群にならぬように、気をつけて、気分転換。・・・・・・・

 

次なる曲は。

★ベッリー二   「夢遊病の女」でしたが、岩見沢市教育大学の出演する筈の人が、たしか、風邪かなにかで、中止となりました。残念でした。

 

 

 

★次なるは、プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲でした。

庄司紗矢香さんのを聞いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

★フランセ 「花時計」

 

 

 

いよいよ、最後の曲です。

★ラシド・カリムリン(タタール自治共和国作曲家同盟議長),変貌するソヴィエト作曲界の音楽家。なかなか資料がありません。クリップはようやっと見つけました。貴重です。

 

 

 

 というわけで、全曲を聞き直してみたのですが、あらためて、クラシック界の革新、を感じました。というのは、1950年代に作曲された曲が耳についたからです。

 

  1950年代には、jazzがまだまだ、革新せずに、スタート点にたっているだけで、70年代のフリーjazzまで待つしかなかったということをあらためて、考えさせられました。(50年代のjazzはjazzで、大好きなのですが、クラシックの方が、良くも悪くも、音の革新を考えていたという点が、興味深かったです。)

 クラシックは、おもしろいです。深いです。

 jazzミュージシャンが、最後の最後に、誰もが、クラシックに憧れるということも、含めて、興味深い西欧の音楽界です。

 

 

 残念だったのは、日本の、武満徹などの作品がひとつも演奏されなかったことです。ここは、日本ですから、ひとつくらいは、誰かが、チャレンジしてもらいたかったところです。

 

 

 明日もまた、クラシックコンサートを、友人の Oさんと、聞きに行きます。楽しみです。・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎資料

マスカーニ

ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 1863年12月7日リヴォルノ - 1945年8月2日ローマ)は、イタリアのオペラ作曲家、指揮者。

経歴

 

パン屋の両親の元に生まれる。父はピエトロに法律を学ばせたが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学ぶ。20歳にならぬうちに交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められる。そして後援者の後押しでミラノ音楽院に入り、アミルカレ・ポンキエッリに師事したが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始める。その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となる。 

1890年にローマの楽譜出版社ソンゾーニョ(Musicale Sonzogno)の一幕歌劇コンクールに応募して当選した代表作『カヴァレリア・ルスティカーナ』によって驚異的な成功を収めるが、不幸にもこれがその後の多くの作品を霞めてしまった。それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残した。1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。

存命中は、オペラで驚くほどの成功をおさめ、同時に指揮者としても非常に成功を収めた。マスカーニの作風は、友人でライバルだったプッチーニとは大変に異なっている。おそらくそのために評論家筋からマスカーニ作品は過小評価されてきたのだろう。

ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノに再埋葬され、それと共に名誉回復された。

彼がいくつか残した自作自演(『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『友人フリッツ』など)は、現在もCDで入手することができるほど評価が高い。

 

 

◎資料

ラウニ・グレンダール(Launy Grøndahl、1886年6月30日 - 1960年1月21日)はデンマークの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。

 

 

 

1886年にオードロップに生まれた。8才からヴァイオリンを学び始め、13才でコペンハーゲンのカジノ劇場のオーケストラでヴァイオリン奏者となった。ルドルフ・ニールセンに作曲を、アクセル・ゲーゼにヴァイオリンを師事し、パリやローマ、ウィーンでも学んだ。

1925年に設立されたデンマーク放送交響楽団の初代指揮者に就任し、同時代の自国の作曲家の作品を積極的に取り上げた。1956年まで在任し、レコード録音も残されており、現在でもその演奏を聞くことができる。

1960年にフレデリクスベア(en:Frederiksberg)で亡くなった。

作曲家としては、交響曲や協奏曲、弦楽四重奏曲などの作品があるが、現在でも演奏され最もよく知られているのは『トロンボーン協奏曲』である。イタリア滞在中の1924年に作曲されたこの曲は、作曲者の友人であったコペンハーゲンの王立管弦楽団のトロンボーン奏者、ヴィルヘルム・オールクローのために作曲された。

 

◎資料3

エイノユハニ・ラウタヴァーラ(Einojuhani Rautavaara 1928年10月9日 - 2016年7月27日)は、フィンランドの現代音楽の作曲家。同国における同世代の作曲家のなかでは代表的存在である。

 

 

 

ヘルシンキに生まれる。1948年から1952年まで、ヘルシンキのシベリウス・アカデミーにてアーッレ・メリカントに師事。後に、シベリウスの勧めでニューヨークのジュリアード音楽院に移る。ジュリアード音楽院では、ヴィンセント・パーシケッティに師事するほか、タングルウッド音楽センターにてセッションズとコープランドのレッスンも受けている。ラウタヴァーラは、1954年にThor Johnson Contestへ出品した「我らの時代のレクイエム A Requiem in Our Time」で国際的な注目を集めた。

1957年から1959年まで、シベリウス・アカデミーにて短期の講師として働いた後、1959年から1961年までヘルシンキ・フィルハーモニックのアーキヴィストとして働いた。1965年から1966年までは、Käpylä Music Institute in Helsinkiの学長を務め、1966年から1976年まで、再びシベリウス・アカデミーにて講師になった。そのうち、1971年からは国家任命の芸術教授となった。1976年から1990年までは、シベリウス・アカデミーにて作曲学の教授に就いた。2004年に急病に倒れたものの、すぐに回復している。

ラウタヴァーラは多作の作曲家であり、さまざまな形式やスタイルで作品を発表している。彼の作品は、楽譜も容易に手に入れることが出来る。ラウタヴァーラは初期にセリー主義へ傾倒し、たとえば交響曲第3番ではセリアルな語法が目立つが、ブーレーズのような難解なセリー音楽ではなく、ブルックナーのようなきわめて明快な音楽を作る傾向にあった。しかし1960年以降はセリー主義を離れ、それ以後の作品では題名に「天使」などの語が織り込まれ、清澄で神秘的な要素を帯びてくる。こうしたラウタヴァーラの音楽では、弦楽器による簡素で民俗的な主題や、旋回するフルートの旋律、ベルによる静かな不協和音、牧歌的なホルンが特徴的なものとして挙げられる。

ラウタヴァーラの作品は、8つの交響曲のほか、いくつかの協奏曲、声楽曲、さまざまな楽器のためのソナタ、弦楽四重奏曲、その他室内楽曲、そしてたくさんのオペラなど、広いジャンルに亘る。 また、テープのためのパートが与えられた作品も多く、「カントゥス・アルティクス Cantus articus」(テープに録音された鳥の声と管弦楽のための協奏曲)や、合唱と管弦楽とテープのための「真実と偽りのユニコーン True and False Unicorn」が名高い。

ラウタヴァーラの作品の多くは既に録音されているが、なかでもレイフ・セーゲルスタム指揮によるヘルシンキ・フィルハーモニック・オーケストラの交響曲第7番「光の天使」は大成功を収めており、1997年度のグラミー賞にノミネートされた。

 

◎資料

ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(Ruggero Leoncavallo, 1857年4月23日ナポリ - 1919年8月9日モンテカティーニ)は、イタリアのオペラ作曲家、台本作家。

 

 

 

ナポリ音楽院で学ぶ。数年間の教育活動の後、自作のオペラ上演の機会を得ようと努力したが、果たせなかった。オペラ『道化師 (Pagliacci)』が1892年にミラノで上演されるとたちまち成功をおさめた。これは今日標準的なオペラの演目に残っている唯一のレオンカヴァッロ作品であり、それ以外の歴史的歌劇などは上演される機会はない。翌年『メディチ家の人々 (I Medici)』を、1896年には『チャタートン (Chatterton)』を発表するが、どちらも興行的には失敗に終わった。その後のオペラは、『ザザ (Zazà, 1900年)』や『ベルリンのローラント (Der Roland, 1904年)』がある。

 

文才に恵まれ、また同時代のフランス文学に通暁していたレオンカヴァッロは、台本作家としてもそこそこの成功を収めた。レオンカヴァッロは初期のオペラでは自ら台本を書いており、また他の作曲家のオペラの台本も書いている。プッチーニの出世作『マノン・レスコー』の脚本にも協力した。

 

 

◎コープランド 資料

アーロン・コープランド(Aaron Copland、1900年11月14日 - 1990年12月2日)は20世紀アメリカを代表する作曲家のひとり。アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。指揮や著述、音楽評論にも実績を残した。

 

 

ニューヨーク州ブルックリンにおいて、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれた。14歳で本格的にピアノを習い始め、作曲家を志したのは15歳のときという。16歳からルービン・ゴールドマーク(オーストリアの作曲家カール・ゴルトマルクの甥)に作曲を師事する。

 

1921年、21歳のときにパリに留学、個人的にナディア・ブーランジェの弟子となる。パリ留学中にはジャズの要素を取り入れた曲を多く書いていたが、次第に一般大衆と現代音楽の隔たりを意識するようになる。

 

1924年に帰国すると、「アメリカ的」音楽を模索、アメリカ民謡を取材・研究し、これを取り入れた簡明な作風を打ち立てる。出世作『エル・サロン・メヒコ』(1936年)を経て発表された、『ビリー・ザ・キッド』(1938年)、『ロデオ』(1942年)、『アパラチアの春』(1944年)などのバレエ音楽が、コープランドのスタイルとして確立された作品といえる。

 

その後、再び純音楽的作品に戻り、12音技法を用いるなど曲折の後、晩年は非常な寡作となった。このようなコープランドの音楽スタイルの変遷は、そのままアメリカの音楽文化の形成過程を象徴しているとも指摘されている。

 

 

◎資料

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[註 1]は、(1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日))ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。

 

 

ラフマニノフ、1885年

 

1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[註 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[註 3]が受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしい。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、多感な子供時代を過ごした。

 

4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

 

しかし彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

音楽家としての目ざめ

ズヴェーレフとその弟子たち

 

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後にはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

 

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。この後彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

 

1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。

 

1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

 

翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。

挫折

 

ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性[註 4]や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。

 

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、主に演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の一人として立ち会った。

ラフマニノフ、1899年

 

1898年にはシャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

 

一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」(後に作品21の1として出版された)を披露した。しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い[註 5]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。

作曲家としての成功

 

つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していたピアノ協奏曲第2番第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。

 

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という二つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

 

1902年、従妹のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した「12の歌曲集」作品21には妻に捧げた「ここは素晴らしい」(第7曲)や、後に自身でピアノ独奏曲にも編曲した「ライラック」(第5曲)といった作品が含まれている。

 

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ、『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

 

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛を以て迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムでウィレム・メンゲルベルクとの共演でピアノ協奏曲第2番を演奏した[3]。

 

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだ出来上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。

ラフマニノフ、1910年代

 

この頃ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集作品34を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された「ヴォカリーズ」が収められている。

 

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『鐘』を作曲した。1915年1月には正教会の奉神礼音楽の大作『徹夜禱』を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、ピアノ協奏曲第1番の大掛かりな改訂作業を行った。

祖国を離れて

 

1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった。(1930年6月の、『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである。」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)

 

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行った後、1918年の秋にアメリカに渡り、以後は主にコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、極めて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

 

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチやウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音も度々行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

 

ロシア出国後は作曲活動は極めて低調になった。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという[1]。それでも1926年にはロシア出国後初の作品となるピアノ協奏曲第4番を作曲した。

 

1931年、スイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。パガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番はここで作曲された。1939年8月、ルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した[4]。

ラフマニノフの墓。八端十字架が建てられている。

 

やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。

 

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された[註 6]。

 

◎ベッリー二

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini, 1801年11月3日 - 1835年9月23日)はシチリア島・カターニアに生れ、パリ近郊で没したクラシック音楽の作曲家で、主としてオペラ作曲家として有名である。名字はベルリーニ、ベリーニとも表記する。1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。

 

ロッシーニやドニゼッティと共に19世紀前半のイタリアオペラ界を代表する天才である。中でも特にベッリーニについてはショパン、ベルリオーズ、ワーグナーらの賞賛と愛情の言葉を得ている事で知られている。父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から作曲を始めたという神童であった。

 

    1819年(18歳)- 貴族の後援者を得てナポリの王立音楽院に入学。

    1825年(24歳)- 音楽院内で公演されたオペラの処女作『アデルソンとサルヴィーニ』が認められる。その後、オペラ『ビアンカとジェルナンド』、『海賊』の相次ぎ成功。

    1831年(30歳)- オペラ『夢遊病の女』を発表。大好評を博すが、自身では管弦楽法の未熟さを認識しており、改めて学習したと言われている。

    1835年(34歳)- 病を得て9月23日短い生涯を閉じた(慢性の腸疾患という)。パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、その後遺体はカターニアに再埋葬された。

 

◎資料  セルゲイ・プロコフィエフ

 

 

Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。

 

 

 

 

現在のウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人。帝政期のロシアに生を受け、サンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。

 

ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。

 

交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。

 

 

◎資料  

ジャン・ルネ・デジレ・フランセ(Jean René Désiré Françaix , 1912年5月23日 - 1997年9月25日)は、フランスの新古典主義音楽の作曲家。ピアニストや編曲家としても活躍し、多作家で、生気あふれる作風で知られる。没後の翌年から、フランス国内でフランセを讃えたジャン・フランセ国際音楽コンクールも開催されている。

 

 

 

フランセの天与の才能は、幼い頃から家庭環境によって育まれた。父親は音楽学者・作曲家・ピアニストであり、母親は声楽教師だった。6歳で作曲を始め、1922年の最初の出版作品は、ナディア・ブーランジェの注目を集める。当時彼女は、楽譜出版社のための仕事をしており、ブーランジェはフランセに音楽活動を薦めた。フランセ自身はしばしば自作を演奏して、公衆の注目を集めた。たとえば、「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」のバーデン=バーデン初演(1932年)が有名である。

 

フランセは若い頃から洗練されたピアニストで、パリ音楽院ピアノ科では首席に輝いており、ソリストや伴奏者としての道を模索したこともあった。チェリストのモーリス・ジャンドロンとの共演が有名だが、ジャック・フェヴリエの代役として、フランシス・プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」で作曲者自身とピアノを共演することもあった。

 

しかしフランセの、やはり主要な業績といえば、きわめて積極的な作曲活動であった。生涯を通じて多作家であり、1981年においてさえ、「いつでも作曲している」と公言していたように、別々の作品を掛け持ちで書き上げるのが常だった。この習慣は没年まで続けられた。

作品

 

モーリス・ラヴェルはフランセの少年時代に、その両親に次のように述べている。「この子の才能のうちで、私が見る限り、一人の芸術家として最も将来が有望視されるのは、旺盛な好奇心に恵まれているということです。くれぐれも親御さんが、かけがえないこの才能を潰したり、坊ちゃんの感受性をしなびさせたりしませんように」

 

フランセは多産な作曲家であり、幅広い作曲様式によって200曲以上の作品を残した。

 

作品はピアノ曲が中心を占めており、あらゆる管絃楽曲や合奏曲、とりわけ多くの室内楽曲では、ピアノの存在が目立っている。フランセは管弦楽法の手腕に長けており、音色の扱い方にその能力が発揮されている。フランセは大形式の楽曲を数多く手懸け、協奏曲や交響曲、オペラ、劇場音楽、バレエ音楽を残した。またカンタータなど、20世紀に関心が失われつつあった伝統的な楽種にも手を染めている。フランセは、古くからの表現方法に現代的なスピード感を付け加えたものの、自他ともに認める新古典主義者として、無調性や無形式の迷宮を斥け、声楽曲の作曲では、過去の偉大な前例に倣っている。また10点の映画音楽も残した。

 

作曲様式は、生涯を通じてほとんど変わらず、軽快さと機智にあり(自ら述べたところによると、目指したところは「喜びを与えること」だった)、旋律線同士のやりとりも目立っている。尊敬していた作曲家、たとえばイーゴリ・ストラヴィンスキーやラヴェル、プーランクらに影響されたが、取り入れたものは自分自身の確たる美学へとまとめ上げている。こういう側面は初期作品にも認められる。

 


「楕円幻想」     花田清輝

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 花田清輝(1909-1974)という作家のことを知っている人はもう今の若い人には少ないでしょうね。
 その昔、吉本ばななちゃんのお父さんと大きな喧嘩した、とか言うとわかるのでしょうか。

 そのような難しい事はともかく、私はこの本を19歳の時に、神奈川の田舎のアパートで読んでほんとうに感激しましたね。
 何がと言われると困るのですが、簡単に言うと、三島さんが文体文体と言っていた意味がおぼろげながらわかる気持ちがしたのです。
 澁澤龍彦氏が花田清輝の文体の独特さ、アナロジーの卓抜さを「偏愛的作家論」に書いていましたが、当時から私のプラトンに対する偏向はもう決まっていたと言うべきですか。
 「女の論理」ダンテ
 「鏡の中の言葉」レオナルド
 「球面三角」ポオ
 「極大・極小」スウィフト
 「ブリダンの驢馬」スピノザ

 なとなど、エッセイの項目自体が醸し出す、その知的で、大胆で、すこぶるシャレたイメージの提起に頭がやられてしまったんですね。
 その年の自分のベスト10に入れて、今でも、持続していますね。

 で、今回読み直してみて、あっこの言葉にやられたんだな、という箇所を見つけました。
 

こころのサプリ    アフォリズム=箴言集-img558.jpg




 「いうもでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円であるかぎり、それは、覚めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信じることを意味する。これが曖昧であり、なにかあり得べからぬもののやうに思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなほ、円の亡霊に憑かれているためであろう」


 当時は、私の大学でもまだ学園紛争の火種はくすぶっていましたから、個人的な趣味としてミステリーなどの本にはどうしても手が出せず、「悟り」を開きたいのではないが、そんな「この世に真理はあるのか」などというような大げさな真面目さで本を読んでいたのでしょう。
 そこに、この本は、そう言う視点以外の視点を提起してくれたのは、大きかったです。

 そうか、二つの相矛盾することでくるくる悩んでもいいんだ、その方が誠実なことなのかもしれない、なんて若干19歳の生意気な若造君は思ったんでしょうね。
 でもこの文体、花田清輝の深い教養と知性から書かれてますので、今読んでも簡単には理解させないぞ、そんな強気に溢れていて、大好きです。

 やっぱり、こんな気持ち忘れたらいけないな、と。
 初心をこの本で思いだす事ができました。

 
 文化大革命を支持した彼は、それを批判した安部公房や三島由紀夫や川端康成や石川淳などに対して激怒したとありますが、彼の姿勢がよく表れてますね。
 まさに、芸術もまた古典とアバンギャルドの間をゆきつもどりつしながら、新しいものを生み出していくということでしょうか。
 岡本太郎も花田清輝から影響を受けております。










8.5.追加


花田十輝は、お孫さんで、シナリオライターさんですが、ドラゴンマガジンやcobalt文庫にも書いてますね。


 

好きなように聴く・・・・・「月光」 ケンプ グールド クラウディオ・アラウ・レオン

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 ピアノ。
 私にとってのおきまりの麻薬。

 

 よく、聞かれる曲ですが、いつも、夜中の散歩を楽しんでいる私としては、これは、弾く人、聴く時間=朝 昼 夜、一緒に聴く人、いろいろな雰囲気のなかで、違う曲のようにも聞こえて来ます。

 もうすぐ、満月なので、その力がわたしにこの記事を書かせているのかもしれません。

 

  ケンプの「月光」

いつも、レコードで聞いていますが、クリップ見つけました。

 



 私の素人意見。

 


 見るだけでわかる彼のきまじめさ。音楽に対する信頼・神秘を感じる力、
 力まず、過剰にならず、自然のままに洗練されたような弾き方。
 これを、私の好きなグールドと比較して聞くとまた楽しみが増しますね。
次なるは、ちょいと、おもしろい、グールドの「月光」

 

 

 



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 「ベートーヴェンのソナタが音楽として有無を言わせず染み入ってくるものは、演奏者が60歳あたりを過ぎてからのものであることが多い。ケンプの演奏は、きっちりした古典的ソナタ形式の枠の中を幸いに、自由に遊び戯れているようでいながら、断固とした世界は崩れることなく描ききっている不思議なベート-ヴェンである。人間としての自由な気持ちのゆれを大事にしたケンプが、バッハでもコラールプレリュードに共感を深くしているのはわかるような気がする。」、こんな評を見つけました。
 普通の方でもよく演奏聞いてますね。

 

 

この女性、ロシアのピアニストで、有名ですね。レコードはけっこう持っています。

バッハのコラールプレリュード関連は、心をうちます。

 







 まあ、最後は好き嫌いの問題になるとは思いますが、奏者の表現の高みへのチャレンジと年相応の進化というのですかね、それが聞く人にも伝わってきますし、聴く耳の、成長のきっかけにもなるのかもしれません。

 ケンプは、親日で10回程、日本に来ていますので、どこか日本の空気にあうところがあったのでしょう。

 

 

 その他、他の人がたくさんこの月光は弾いていますが、興味深いですね。

 解釈のしかたで、違いがでていて、そこに彼らの気質や経験が、無意識につみかさなれて、まるで、音楽そのものが、ごちそうのように、私には思われるのです。

 

 いつも思うのですが、日本人の演奏は、大胆というよりも、日本車のように、正確で、お行儀がよく、上質な音なのかもしれません。

 

 

なんと美しい!!!

 

仲道 郁代は日本のピアニスト。ピアニストの仲道祐子は実妹。仙台生まれ。

 

◎資料

In 1949, pianist Alexander Jenner won the "Bösendorfer-Preisflügel" (Bösendorfer Grand Piano Prize), which was awarded by the famous Viennese piano manufacturer to the best student. This fact and early performances put him in the limelight. No wonder he was asked by Marcel Prawy to make recordings for the Remington label.

 

 

◎資料

クラウディオ・アラウ・レオン(Claudio Arrau León 1903年2月6日 - 1991年6月9日)は、南米チリ出身でアメリカを中心に活動したピアニスト。20世紀を代表するピアノの巨匠として知られた。

 

 

 

チリの首都サンティアゴ・デ・チレから400km南にある都市チリャンの名門の家系に、眼科医のカルロス・アラウ(Carlos Arrau)とアマチュア・ピアニストのルクレシア・レオン(Lucrecia León)の息子として生まれた。父方の祖先はフランスのプロヴァンスの出で、本来の苗字はArrault(アロ)だったが、中世にバルセロナへ移住したとき語尾の-ltを省いて現在の苗字になった[1]。

早くから神童として知られ、5歳で最初のリサイタルを持った。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、リストの高弟であるマルティン・クラウゼに師事(同門にエトヴィン・フィッシャーがいる)。

ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。ヨーロッパでの名声を確立する。

1925年には母校シュテルン音楽院の教授に就任。1927年にはジュネーブ国際ピアノコンクールに1位入賞。1935年からはベルリンでバッハとモーツァルトの全クラヴィーア曲の連続演奏会を開く。

またベートーヴェンやウェーバー、シューベルトのピアノソナタ連続演奏会をヨーロッパや南米各地で行い、その名声を不動のものとした。

1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。

 


 そこで、思い出すのが、先日買ったドナルド・キーンさんの「私の好きなレコード」の中の文章を思い出して聞いてみたいなあと素人クラシック愛好家は思います。

 「室内楽に対する私の大いなる目覚めは、あのシューベルトのチェロを二本用いた<弦楽五重奏曲>、いまだ涙なくしては聴くことのできない作品、とともに訪れたのだった。

 

 


 キーンさんにしては「涙なくしては」などという表現は珍しいですね。
 これはなんとしても聞いてみようという「素人の発作」がまた、始まるではありませんか。

 

 日本人の音とも、比較してみます。

 

 

 

バカっぽい現象をテキストにして「考える力」をとりもどせ!!

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バカっぽい現象をテキストにして「考える力」をとりもどせ!!
と、大前研一氏は言う。「知の衰退」からいかに脱出するか?/大前研一

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 クラリネットを吹くほどのクラシック愛好家の彼は、昔は、クラシックなどの音楽の古典の教養は、コミュニケーションとして役にたったが、今はさほどでもないと書く。
 アメリカあたりでも、文学やクラシックが話題になることは少ないらしい。
 時代はそう変わりつつあるということか。・・・


 台湾や中国でも大前研一氏の本は数十万以上売れるというからすごい。

 個人的に言うと、私は「考える」ということは、小林秀雄氏や渡辺昇一氏から学んだが、彼らから比較するとこの大前氏は、軽い印象は受ける。
 しかしながら。


 全国、全世界を股にかける彼だからこその説得力もあって、そうなのかとも思う。

 その彼が21世紀の教養とは何かということで、書いているのが興味深い。


  彼がいろいろなところに出向き、たくさんのトップと話していると最近特に出てくる話題=このことを考えていないとのけものになってしまう話題は、下記のふたつらしい。


   1  環境問題 緑化など
   2  アフリカのエイズ問題



 この地球を資源として商売をしたりしてもうけさせてもらっている以上は、恩も地球に返せということだろう。

 アフリカの方は、現地に夫婦ともども出かけて、貧困問題などの問題と向き合うということだ。


  小林秀雄氏は考えるということは、調べることではない、と言う。
  対峙する、つまり対するということが、考えるという古語の本質の意味と言う。
  かむかふ、と書くらしいが。(記憶違いならばスミマセン)

 
  渡辺昇一氏もまた、考えるということに重きを置いている。
  夜中に酒をちびちびやりながら、何時間でも仕事について考えているサラリーマンのトップなどを評価する。
  知識をただ獲得するだけの行為は実は考えることではないということ。


  鶏のように、さわがしくちょろちょろ餌をつつきまわすような似非インテリジェンス。
  雄大な空を大きな羽を広げて空想瞑想するようなイマジネーション全開のインテリジェンスを真の知恵=インテレクト。そのように、似非インテリジェンスと区別している。


 

  

 

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 この「ナイロビの蜂」は最近見た映画のなかでは、異色でかなり深く印象に残った。
 ブログにも記録した。
 「シェルタリング・スカイ」も確かアフリカを舞台にしていたが、この「ナイロビの蜂」はまさにアフリカの現代の貧困地獄、飢餓地獄を描いている。

 あと、「すべては愛のために」
すべては愛のために~Beyond Borders~ [DVD]/アンジェリーナ・ジョリー,クライヴ・オーウェン,テリー・ポロ

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   この作品にもアフリカの国の貧困が出てくる。
   

 

 

 

 


  ここに今や、たくさんの大前氏の友だちやら知人らが、出かけている。


  というわけで、知の刺激にはなる一冊。集団記憶力がないと言われると腹はたつが。^^
  自分のブログ記事を再度読み直してみる。



 (過去ブログ記事より)  すべては愛のために 
              ナイロビの蜂     備忘録


  心のサプリ (本のある生活) 
  心のサプリ (本のある生活) 


淀川長治氏が、「良い映画を見ていると人生が幸福になる」と書いていますが、「悪い映画を見ていると人生が不幸になる」とも言えそうで、少し怖くもなります。


しかしながら、人それぞれにとって、脳の一番本質的なところをジーンと刺激するのは、また違っていいのであって、それに、体調やら、その日の気分によっても、見た映画の感動は異なってきます。


小説の良いところは、読みたくなくなれば、ボイと文庫本を机や枕元に投げ出して、散歩にでかければいいですし、すこしずつ、何日にもわけて考えながら読む楽しみもあります。

でも、映画は、家族で見たり、友だちと見たりと、なかなかそう自由には見るわけには普通はいかないでしょう。

糸川氏などは、時間の有効活用として、多忙の日々、一時間のあいた時間に映画を一時間分見て、残りの半分の映画は、こんどはたとえば飛行機で着いた行き先で見るという具合に、映画の自由な見方を紹介していましたが、お金もかかりますし、みんなができるという映画鑑賞法ではありませんね。^^




ともかく、
エチオピア、カンボジア、チェチェン、イギリスという地域を美しい映画の画面で映し出しています。
映画のテーマである、紛争そのものの残酷はともかく、たぶん一生足を踏み入れることのない場所をうまく切り取って映画にしてまとめています。


それにもう、「今の時代の空気」を切り取るためには、「単純さ」だけでは無理なのかもしれない。
それだけ紛争戦争の残虐さは、単純なる物語にはなりえない?

見て、考え込むだけ。
見て、驚愕する。

これらの映画群を見て、簡単にレヴューで点数などつける気にはなれない。・・・・


そんな場所に、サラは踏み込んで行く。・・・・

ニックへの尊敬と愛によって。


しかしながら、この映画の題名は、なんとかならないか?


beyond bordersで良いと思いますが。
だれもが怖がるこのbordersをこのサラは、超えて行く。

それにしてもアフリカのあのやせ衰えた子供のシーンの驚愕。
もう眼をそむけたくなるほど。ホンモノの子供をよく撮ったものだ。
あの自殺した「飢餓の子供と禿鷹」の写真家が撮った写真を連想させるシーン。
サラは母子を必死で助ける。



新聞やテレビでよくニュース紹介されるこれらの地域。
しかし、この映画一本見れば、リアルに想像が可能になる。
物語はさておいてよく惨状をまとめあげたものと感心しきり。
その画像はかなり強烈で人生のスパイスになる。これでもう
くだらないことで弱音を吐きたくなるだろうことは間違いない。




日本は幸福だ。(東北福島をのぞく)
なまぬるい日本人の危機意識。



連想。
「ナイロビの蜂」$  心のサプリ (本のある生活) 


この映画でも、サラのようにとてつもなく感受性が強くそして挫折してもへこたれない女としてのテッサという女性が出てきてやはり死んでいる。

彼女たちの前では、なんと無力なサラの旦那。


そして、テッサによって次第に本能としての男性の野生をとりもどすジャスティン。


このような反体制的な映画の欠点として、思想をおしつけるあまり、見ていて席をたちたくなるようなシネマもありますが、この二作は、人間社会、世界、組織、そんなものの裏社会の醜さをリアルに描きつつも、自然の美しさも讃えることを忘れていないので、一方的なおしつけにならずに、脳に情報をインプットできるのかもしれない。


  国連難民高等弁務官 緒方貞子。
  断食直訴  瀬戸内寂聴。


 男は「戦う意味」を求めるし、 おんなは「盲目的な生きる意志」そのものなのかもしれない。


 それでいいのだと思う。
 いや、あまりにも難しい問題だから簡単にはそう言えないのかもしれない。

 

 朝起きて、光のなかに神さまへの感謝を感じ、食事がきちんとでき、風呂やトイレがきちんと日々つかえ、好きな音楽を聞いたり好きな本をいつでも読め、気分がのれば少し散歩をしたり買い物をしたりできる今の日本の日常から見ると、それらを抛って、ボーダーを超えて行くこれらの「おんなたち」の生き方は突飛に見えるかもしれないが、一度、見ていて、それらを脳にインプットしておくと、普段の日本の日常の贅沢さに眼がくらむだけの、経験は味わえる。



  映画。


  もうひとつのわたしたちの人生。


  ひとつの苦労が皺をひとつふやすがごとく、脳に少しは皺をふやしてくれるかもしれない映画群。




  サラは、ニックによって心の奧の奧まで、震駭されるほどに影響される。
  ジャスティンは、テッサによって、心の奧の奧まで、やはり震駭されるほどに影響される。


  命と魂。


  命は確かに地球よりも重いのかもしれないが、それよりも重い魂を持つ人に影響されて
  境界線を超えて行く人達。


  それを人は愛と呼ぶのか?







・・・・・・・・・・








  

  それにレイチェル・ワイズって、「魅せられて」にも出ていたとは・・・
  またまた「魅せられて」のDVDをトレイにのせる楽しみも・・・

  それに、アンジェリーナ・ジョリーが、最近見た映画、ジョニーディップと競演したあの女優だと気がつくのがおそすぎ。
  反省。^^


 



資料A  beyond borders 日本では「すべては愛のために」
エチオピア、カンボジア、チェチェン、イギリスと4ヶ国におよぶ壮大なロケーションの中で、10年に渡って繰り広げられる男女二人の真実の愛の物語。主演は「17歳のカルテ」「トゥームレイダー」のアンジェリーナ・ジョリーと、「ボーン・アイデンティティー」のクライヴ・オーウェン。監督は「007/ゴールデンアイ」のマーティン・キャンベル。


裕福なイギリス人のヘンリーと結婚し、社交界で何不自由のない生活を送っていた美しい人妻サラ。彼女はある日、義父の慈善活動の功績を讃える盛大なパーティに参加する。華やかな出席者が集う至福の時間。しかし和やかなムードは、痩せ細った一人の少年を引き連れて突如乱入してきた青年医師ニックによって、一転する。荒々しく壇上にあがったニックに、冷ややかな視線を浴びせる参加者たち。それを軽蔑の眼差しで見つめ返すニックは、「世界には今、この瞬間も死んでいく子供たちがいる」と語り始める。翌日あの少年が死亡したことを知った彼女は、私財を投じて援助活動に向かうことを決心する。




資料B 日本題名「ナイロビの蜂」
ガーデニングが趣味の物静かな英国外務省一等書記官のジャスティン(レイフ・ファインズ)は、スラムの医療施設を改善する救援活動に励む妻テッサ(レイチェル・ワイズ)と、ナイロビで暮らしていた。しかし突然、テッサがトゥルカナ湖の南端で殺害されたという報せが届く。彼女と同行していた黒人医師アーノルド(ユベール・クンデ)は行方不明。警察はよくある殺人事件と断定して処理しようとするが、その動きや、テッサに密かに思いを寄せていた同僚サンディ(ダニー・ヒューストン)の不審な振る舞いから、疑念にかられたジャスティンは、妻の死の真相を独自に調べ始める。そして、アフリカで横行する薬物実験、大手製薬会社と外務省のアフリカ局長ペレグリン(ビル・ナイ)の癒着という、テッサが生前暴こうとしていた世界的陰謀を知る。命の危険にさらされながら、テッサの想いを引き継ぐジャスティンは、その過程で、改めてテッサへの愛を実感していく。やがてジャスティンもテッサと同じように湖の南端で殺害されるが、テッサのいとこの弁護士の尽力によって、ペレグリンの悪事を示す手紙が世間に公開されるのだった。


原作は冒険小説の巨匠ジョン・ル・カレの最高傑作「ナイロビの蜂」。妻の死に隠された世界的陰謀を追い、雄大なアフリカの大地を巡る主人公の心の旅路を、フェルナンド・メイレレス監督は圧倒的な映像美で描き出す。妻の死の真相を追う旅の末に、亡き妻の真実の愛にたどり着く夫を描いた本作は、覚悟に満ちた愛だけが、巨悪に立ち向かう唯一の武器だと教えてくれる。極上のサスペンスが心に染み入る“愛の傑作”に変わるとき、あなたは一生に何度出会えるかわからない映画の奇跡を目の当たりにする。(作品資料より)

小さな祭りの夜    岩見沢市教育大学ミニコンサート 「5台のコントラバスが興じる美」

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岩見沢市プラス一度。快晴!!! 気持のよい朝です。本日介護父のリハビリデーなので、朝から大忙し。体調が悪そうなので、本日、見学だけにしてもらいましたが。・・・・・・

 

 

 

昨夜のコンサート。

自由人と言えばカッコいいですが、要はたんなる暇人の絵を描いているジジイの私、なんですが、昨日は、またまた教育大学の若々しくも新鮮な、「5台のコントラバスが興じる美」を私と同じ病気(クラシックその他音楽病)持ちの奥野さんと聞いてまいりました。

 

 

六時から始まるというので、五時には散歩がてら、10000歩歩いてから、入ったのですが、ちょうど練習中でしたので、水分補給をしながら、ぼおっと岩見沢市まなみーる市民会館で、休息していました。

あんまり、ホールのなかは寒いので、(場内ホールではなく、オープンスペースの演奏・・)、ひざかけをかしてもらって、助かりました。

はっきり言って、普段、一流の世界的なアーティストばかり聞いているので、技術面では、あらら??という場面もたたありましたが。

 

 

 

 

 

 

彼らの笑顔や、新鮮さ、チャレンジする精神などなど、楽しませてもらいました。四人の男子と、ひとりのピアニスト。ひとりのコントラバス女子でした。

 

 

いつも思うのですが、一流の方の演奏をCDやレコードで聞いていると、ほぼ、完成した曲目の姿というものをイメージしてしまうのですが、音楽というものは、やはり、たくさんの聴衆たちといっしょに、「生」で聴くことは、素晴しい、「体験」であります。

たとえ、それが、あまり上手くない演奏であっても、「生」のライブ感覚というものは、耳に残ります。・・・・・

そんなことやら、あんなことやら、いろんなことを、奥野さんと語り合いました。

 

 

 

 

 

楽しき夜。またのコンサートでの再会と談義を楽しみに、夜の10時頃別れました。虎次郎のご飯までおみやげにいただきました。

音楽の宴に   ちいさなfestaに 感謝!!!!!!!!!!

 

 

「グラントリノ」「山の人生」柳田国男 「転校生フリオ」「岡本太郎芸術と人生」

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生きてると、怒らせちゃいけない相手と出くわすことがたまにあると知ってたか? それが俺だ」(「グラン・トリノ」   クリント・イーストウッド





「グラン・トリノ」


◎資料
『ミリオンダラー・ベイビー』以来、4年ぶりにクリント・イーストウッドが監督・主演を務めた人間ドラマ。朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤(かっとう)する姿を描く。イーストウッド演じる主人公と友情を育む少年タオにふんしたビー・ヴァン、彼の姉役のアニー・ハーなどほとんど無名の役者を起用。アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめた物語が胸を打つ。





クリント・イーストウッドは父クリントン[1]・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に生まれる。スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、幼い頃の生活は世界恐慌の煽りを受け苦しかった。
オークランド・テクニカル・ハイスクール卒業後、朝鮮戦争のさなかである1951年に陸軍に召集され入隊。2年後の1953年に除隊後、サウス・カリフォルニアに移住。アルバイトの傍らロサンゼルス・シティ・カレッジの演劇コースを専攻する。1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』といったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごした。



 映画を見て、すぐに、記録すること。
 これも大事。特に私のような映画狂には。

 それに、私は、健忘症。・・・・・ほんとうに忘れっぽい!!!!
だから、記録する。
記憶にたよらず、記録をつけるとは、思うけれども、なかなかそれができない。でも、続けている。




 この映画はすでに、何回も見ている。最後に、再度見てから一ヶ月。
 良い意味で、生な感動は醒めている。


 敬愛する小林秀雄氏は、「生なましい現実体験は、あまりにもなまなましいので、言葉になりづらい。書く行為によって、思い出すことによって、それはより現実の中で生きてくる」と、(私の勝手な解釈ですが・・・)


 したがって、些細なところは忘れた方が良いのかもしれない。
 一ヶ月たっても、記録しておきたいところ、感じたところが、ツボなのかもしれません。
 それに、何回も見ると、新しい発見が次々とあります。


 男と女の良くも悪くも、違いを感じた映画。

 そして、バタ臭いけれども、アメリカという国を一身に背負って立つクリント・イーストウッドの男の色気かな。


 こうやって書きながら、あの映画の細かなシーンが驚く程正確に記憶にパタパタと映写機で回すように脳裏に浮かぶ。
 変な言い方ですが、女性には理解できない映画だと思う。
 女性に惚れられる男の映画だろう。
 何も、異性を理解する必要はないでしょう。惚れることが一番大切。


 今の時代。
 効率効率、合理化、無駄無理ムラを省いて・・・・・これらの大合唱。


 そしてアメリカという国、ユダア人の支える国の、ある意味合理主義。
 三島由紀夫氏は、フロイトニズムでさへ、合理主義の延長かもしれないと書きました。






 自分にとってマイナスな道をとにかく選べ。選べば、圧倒的な生命力がわき上がってくると、岡本太郎氏も言う。

 道がふたつあって、自分にとって、得な道と損な道。
 迷わず、損な方を選べと。・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







  不合理ゆえに我信ず。


  小林秀雄氏は、頭でっかちの似非インテリを嫌う。
  へらへら笑って、大真面目に何にも信じようとしない、できないインテリ達。
 「すべてを疑え!!
正しくない連中は殺戮せよ!!! 」  ああなんたる気違いたちか!!



  三島由紀夫氏の豊饒の海を読んでいると、圧倒的な神秘主義への傾倒に気がつく。
  もう誰も彼を止めることはできない。






  彼の美意識です。
  とにかく、ヘビースモーカーであることを止めない。
  ガンで死ぬことを嫌っていましたね。
  きっと死に方をいつも考えている人でした。・・・・・・・






   その小林秀雄氏も、森の中で、山の中で、歩いていて自然の本質に触れて、どうにもこうにもしょうがないくらいの「何か」を感じている文章を読んだことがある。

   柳田國男氏の民話が大好きだった小林秀雄氏。遠野物語・山の人生 です。

   この子供の首を切り落とした話は実話です。

 11話までありますが、おそらく、いつかなくなるかもしれません。

 

 

 






柳田国男の取材した日本の物語。
生活が普通に日々地道に行われていく山人たちの生活があり、自然の中で、彼らは生きている。
そこにはわれわれ、現代人が日々味わっているようなフランス料理もなくゲームもなくテレビもなく
洗濯機もラジオもiPodももちろんないのであるが、家族3人、男親とふたりの幼い子供達がいた。

日々お父さんは炭を売って生活をたてている。
しかしことしの秋はなにやら炭がまったく売れない。
大事なのは想像することである。彼らの沈黙と静寂のまじめな生活を。
そして食えなくなった悲惨な生活がただただ過ぎていく。
そんなある日、秋の夕日が綺麗なころに、子供達が何やら一生懸命、仕事をしているようだ。
斧を研いでいるらしい。
何も考えずただひたむきに斧を研いでいる。

そしておとうにこう言う。「おとうこれで切ってくれ」
まあこんな言葉で言ったかどうかはもう私も忘れたし、小林も具体的には言っていないのだが、そんな風に思えるのだ。
夕日がとにかく美しくおとうさんは頭がくらくらっとして気がついたら斧をふりおとしていたと言うのだ。

これは実話である。

小林秀雄は遠野物語に出てくるこの有名な話は実は柳田国男がはっきり覚えてはいないのだが、公務員をしていて
そのような各地の事件の担当でいろいろな事件記録を読む仕事を最初していた、と明言している。

昨今の斧で家族を惨殺したという事件となんたる違いか。
小林秀雄はこのような物語が人の心を打つというのは、人の何千年何億年もの暮らしの中で、このように自己犠牲的な
ことが各地で行われてきたにちがいないと語る。
そのようなDNAを人はもしも持っていなければ人類は生きてこれずに滅んでいたのではないか。そこまで彼は語る。



   それと、玉を見てしまう男の子の話。
柳田氏が子供の頃に、近所に確か、祠があって、そこに神様のお守りかなにかが入っていると親に言われて、ついに、その祠をあけて見てしまうんですよね。記憶が曖昧ですが。

   すると、そこには玉が入っていたというんですね。

   玉がそこにあるだけだったと。

   そこで、うぐいすか、何かの鳥が鳴いたというんです。
 
   その時に柳田氏ははっと我にかえって空を見上げると、昼間だと言うのに、満天の星が見えたと言うんです。

   そして、もしも、そこで鳥が鳴かなければ、私は発狂していたであろうと柳田氏は書いていますね。


    科学で解明できないことは迷信だとか、それはたんなる昔の人の言い伝えだとか、言います。
  でも、私はこのような迷信や、言い伝えや、神話や、民話や、そんなもののほうに、自分が近くありたいという気持ちを捨てがたいのですね。

    
  不思議なことに、クリント・イーストウッドのこの映画を見ていて、上記のことなどが、どんどん連想され、わくわくしてきたのでした。

   
  サムライ!

そうか、これは、合理主義の大国アメリカにたったひとりで抵抗している彼の、サムライ映画かもしれない・・・・・

   そんなアホのようなことも連想していたのです。


   ベトナム戦争を経験して、殺戮などの地獄・修羅から魂の傷をどうやっても、癒すことのできない孤独な父親。


   彼の孤独の魂を癒すことができたのはたまたまの隣人。
 
    クリント・イーストウッドの心は、誰にも関係したくもなくて、人間関係のわずらわしさからのがれようとして、妻の死のあとは鬱のようになっていた。
    老年の彼に、若い頃の自分の犯した罪が、悪夢のように襲いかかる。


    しかしながら。


   人は、ひとりでは生きては行けない。
   隣人のあるひとりのアジアの少女を通じて、その弟を通じて、彼の孤独の魂は少しずつ、よみがえってくる。


   そして、その彼らをなぶりものにした者達へは、彼は、徹底した復讐を誓う。・・・


    
キリスト??

   胸から大好きだったタバコの火をつけようとしてジッポを出す行為のトリック。
   そこに彼は解決策を見つける。
   映画といえば映画なのかもしれませんが、ここが途方もなく考えさせられる。



   100000冊の本をただ読んだという。
   100000曲の音楽を聞いたという。

  はたして、それが偉いことなのでしょうか?

    そして、人はただ人生の大切な時間を、ひたすら頭の中を、多読と多聴で、忙しくすることだけにあけくれる。・・・・・・・・・・




    映画を見たあとに、一ヶ月間も、何かをもらったような、考えるヒントをくれる不思議な魅力に満ちた映画。

そんな映画は、めったに、ぶちあたるものじゃあないですね。
    そんな素晴らしい映画は、考えさせてくれるんです。・・とことん。
   
    
    勝手な解釈の私の映画評の、勝手な記事でした。


    シンクロシニティで、この「復讐」についてのそれ、「96時間」と「ニキータ」について、こんど、ヒントが生まれていますので、また書きます。

 

 

 

 



 つぎにロック。







今は、もうロックはさほど、聞かないけれど、たまに聞くと、すごく懐かしい。
 やはり、若い頃は、激しいもの、過激なもの、カッコいいものに、惹かれて行く。
 それは悪いことではないけれども、年齢とともに、好みは変化していくと思う。

あのウッドストックの映画は、素晴しかった。

ひとりで、札幌まで映画を見に行った。感動した。今は、年令を経て、あの祭りはなんだったかを、冷静に考えるようになったし、ヒッピーやら、鈴木大拙の影響やら、

ジョブスやら、詩人達のインスピレシーョンやら、禅やら、考えれることができるようになった。・・・・・・・・・・・・

 

 

  ただ、あれは、何かの変革への音楽をつうじての意志だったのだった。

 

 

 

この映画

 

 

 


 


Woodstock - Ten Years After - I'm Going Home




 若い頃の感動した、たとえば、このアルヴィン・リーのロックにしても、ウッドストックのメンバーにしても、ほとんどアメリカ生まれのサウンドである。(ミックはイギリス)

 そこに、私の時代はまだ、フランスやらイタリアやらドイツやら、の例えば、二ノ・ロータなどの、古典的なイージーリスニング的な美しいサウンドがプラスされる。


 ウッドストックでも、本質的なところで議論されたのは、呼吸法の訓練などで、変成意識が生み出せるかということだろう。
 それができない若者は、皆、ドラッグをやっていたと思う。

 思えば、不思議な時代。

 日本がアメリカの妾とか、笑われた時代かもしれない。


 伝統的な音楽の排除。
 シュールとダダの台頭。
 破壊と否定。


 当時のロック・スターや、jazzmenは、皆死んでしまった。

 聞いたところ、あらゆる職業で一番短命なのは、詩人と、ロック・ミュージシャンらしい。


 一番長生きなのは、坊さん。





 私は、これらの曲を聞いたり、当時の名画を見たりするのは、その時の自分の心の位置をたしかめたり、ときめいたりした空気感を味わいたいだからだと、思っている。



  思想的な共鳴ということを考えると、まったく今とは違う。


  シュールもダダも、満足できない。
  今は、ゲーテのような、小林秀雄氏のような、巨大な考え方に触れていたい。





  (そう考えると、若い頃から読んでいた、三島由紀夫氏・小林秀雄氏・ドイツ浪漫派などは、
  自分の血肉に少しはなっているのかもしれない。)

 とくに、この「當麻」は素晴しい名文である。

 

 

 

 





  そして、深く共鳴するのは、日本と西洋の古典である。
  300年の歴史しか持っていないアメリカと違い、時間のヤスリで
  磨かれた古典・伝統というものは、やはり、重くて、深いのだと思う。


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   しかしながら。
  さきほど書いたように。
  当時の私は、このウッドストックをわざわざ、札幌までひとりで見に行き、感動して、それからはずっとロック派になった。
  瞬間の中の永劫という好きな言葉とこの時、ロックは重なり合ったのだった。


  今。還暦一歩手前で、瞬間の中の永劫という言葉が、バロックの音楽と重なり合うように。

 

 



何歳のころか。
 「惑星ソラリス」を見て、心から感銘した。
 そして、このシーン。
 バッハは高校生の頃から好きだったが、さらに、神秘も含めて、好きになった。
 ・・・・タルコフスキーという天才監督のおかげでしょうか。


 誰しもが、心のなかの悪魔を「惑星ソラリス」の力で、呼び起こされているというのに、
 彼だけは、昔愛した自分の妻を、潜在意識のなかから、呼び出してしまう。
 その愛と葛藤・・・・・・
 SFの名作古典。
 私が強烈に、影響を受けたSF映画、「ブレードランナー」「2001年宇宙の旅」「コンタクト」そして、この「惑星ソラリス」。








 タルコフスキーの映画。
 自分はどこからやってきてどこへいくのか・・・・・存在に対する神秘。
 神秘感を深く感じさせてくれます。
 個人的な感想ですが・・・・・・。




 このソラリスは、あまりにも、美しいので、たしか、アメリカで再度制作されています。
 監督は、



◎資料

2002年にアメリカの映画監督スティーブン・ソダーバーグによりリメイクされた。製作者側によるとこの作品はタルコフスキーの作品のリメイクではなく、あくまでも原作の小説のソダーバーグによる映画化とのことである。 とは言っても、レムの小説よりはタルコフスキーの映画からの影響と思われる要素も多く見られる。実際、DVDの特典に収録されているソダーバーグの脚本には「スタニスワフ・レムの小説および、アンドレイ・タルコフスキーとフリードリッヒ・ゴレンシュタインの脚本に基づく」と書かれている。映画本編のクレジットではレムだけが記載されている。



 存在の神秘。




 この薬は効くと、信頼する人から言われて飲むと、たとえその薬がたんなるメリケン粉であっても、効果がでると言う。
 世界は自分の脳がつくりだしている。
 信念こそがその源だとも思う。




 dragonflyの尼さんが言う、信じたことでこの世はつくられている。
 

 

 

 

 





2002年のアメリカ映画『コーリング』の原題。ドラゴンフライ(dragonfly)は、英語でトンボのこと。


 たしかに、この机の上の「ボールペン一本」にしても、この記事を書いている「パソコン」にしても、
 昼に食した「豆カレー」にして、この狂ったような暑い夏のせいで飲む冷たい水のはいった「コップ」も、一度は、人の頭のなかで、「考えられた」コトが、モノに、変容したのである。

 この地球上のすべての人工物は、一度、人の頭のなかで考えられたからこそ、今、ここに「在る」。
 これは不思議なことだと思う。

 思うことは実現する。そのことだとも思う。

 聖書のなかの、信じるものは救われるという言葉の意味をみな取り違えている。
 それは、キリスト教団体に入れば、宗教団体に入れば、気持ちが楽になって、魂が救われるという意味だけではないのだと思う。



  だれしも、一次元高いところに、住む人の言葉を誤解する。

  言葉を分析するのではなく、「感じる」ことをしなくてはいけないと思う。


 かつて、私はこんな記事を書きました。


三島由紀夫の「文章読本」を読んでいて、おやっと惹かれ、そしてこんなことを彼が書いているのだなあという記述がありました。


 彼一流のユーモアと皮肉で、「僕の登場人物は本など読まない」とか「本をわざわざ買って読んでも不安を買わされるみたいなものだ」とか言うような、文を書く人なので、皆だまされちゃうんですよね。
 素直で純朴な男が好きなのに、そのような文章は書かないというか、不思議ですね。

 三島さん曰く。

 「チボーデは、小説の読者を2種類に分けております。ひとつは、レクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他のひとつはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説と言えば何でも手当たり次第に読み、「趣味」という言葉の中に内包される内的・外的のいかなる要素によっても導かれない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大半はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは、「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。
 リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど、小説を深く味わう読者のことであります。実はこの「文章読本」を、今まで、レクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思って始めるのであります。」


そして彼はここまで書いております。

 私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。
 

 

 

 

 




 三島由紀夫。
 彼の葬式で、武田氏は、こう祭壇に向かって呟く。
「あなたの人生は刻苦勉励の人生でした。御疲れ様でした」






 そういうわけで。

 私は、リズールでありたいと願います。
 というよりも、私の頭のなかの思い出の半分が、実体験の思い出だとすると、もう半分くらいが、映画・音楽・文学・マンガ・絵画・の作者・主人公・そして作品そのものです。

 このふたつが拮抗しています。

 もう、この場合、どちらがバーチャルで、どちらが、リアルかわからないくらいに。



 それで良いと思っています。




 若き頃に見た、アラン・ドロンのシネマの数々を夢見、白い恋人たちでかなでられる人類の華麗なる肉体美と、精神の緊張の闘いに酔いしれ、死刑台のエレベーターに登場するジャンヌ・モローの魅惑を感じ、淀川さんも絶賛した、髪結いの亭主の映像美に、覚醒される時間と空間。


 それで良いと、思っています。
 

  








白い恋人たち。

 

 





死刑台のエレベーター


髪結いの亭主








つぎに。
「コクーン」という映画があります。
SF映画の中でも、忘れられない名作です。個人的にフェバリット。

この映画のことをふと思い出したのが、「フリオ」という諸星大二郎の作品。


◎資料
主に古史古伝に題材をとり、異形の存在によって日常の価値観や世界観を転倒させるような作品を多数発表している。また日常の不安を形にしたような寓意的な作品も得意とする。作品にはクトゥルー神話の間接的影響も随所に見受けられる。
重い読後感を残す伝奇作品を描く一方で、『ど次元世界物語』など、軽めの不条理めいたユーモア作品もデビュー当初より発表している[注 1]。また近作にはグロテスクさとユーモアが同居した『栞と紙魚子』シリーズという少女漫画作品もある。
SF・伝奇漫画家の星野之宣と親交がある。
経歴[編集]
都立江北高校卒業後、東京都電気研究所で3年間公務員を務めたのち、1970年に「硬貨を入れてからボタンを押してください」で漫画雑誌『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん」で佳作5席。同年COM12月号にて「ぐら・こん」入選作の「ジュン子・恐喝」でデビューを果たす。その後、『COM』、『漫画アクション』、『パピヨン』誌などに作品を発表。
1974年に初めて少年ものとして描いた『生物都市』で第7回手塚賞に応募して入選、同年から『週刊少年ジャンプ』で「妖怪ハンター」[注 2]の連載を始め、本格的な作家活動に入る。その後、同誌で「暗黒神話」、「孔子暗黒伝」を連載。
1979年から『週刊少年チャンピオン増刊』『月刊少年チャンピオン』などでマッドメン・シリーズを不定期に掲載。
1983年から『月刊スーパーアクション』誌で「西遊妖猿伝」を連載開始。それまで知る人ぞ知る作家に留まっていたが、この作品で一般的な認知を得るようになる。2000年には同作で第4回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。
2004年、劇画と同じ不条理の世界を描いた初の小説集『キョウコのキョウは恐怖の恐』を刊行。それまでに発表してきた短編小説が加筆・修正のうえ収録されている。
2007年、2冊目の小説集『蜘蛛の糸は必ず切れる』を発表。









「コクーン」









人間の死について考えさせてくれます。
手塚治虫氏の傑作「火の鳥」でも、書かれていましたが、人は永遠の命を望むものの、自分の友達や家族が死んでしまうのには、耐えられないのです。


・・・・・・・・






このテーマはまったく違いますが、・・・・・・「フリオ」





  心のサプリ    





 フリオという転校生、すぐにまた転向してしまう・・。

 洞窟につれていってくれてビニ本を見せてくれたり、あるはずのない路地の奥の自動販売機のことを話したり、ガキ大将の生意気な男の子を鉄棒から念力で落としてしまう。  心のサプリ    

 それでも、誰もそのことを知らないし、まったく気がついてもいない。
 証拠もないし、ボクもそのことは感づいていても、ほんとうかどうかはわからない。


  宇宙人である父親のことを詳しく話してくれるが、やはりいつものようにフリオ君のことはよくわからない。それだけ不思議な友達なのだ。

  土手の上でUFOが迎えにきてくれると聞いて、そこに向かうのだが・・・・・

  やはり、ボクにはその横道を抜けその路地を右にまがることはできなかった。・・・・

  このような不条理ものというのか、奇妙な味のマンガというのか、好きですね。

  まだ諸星もこの頃は、マンガの線が丁寧で、好感も持てますね。今がダメとはいいませんが、やはり初期の作品の方が初々しい新鮮さに満ちています。柳田國男の本もかなり読んでいると思われるふしがありますね。



  心のサプリ    




 NARUTOや、二億部売ったというonepieceワンピースだけがマンガではないでしょう。ひとつの表現方法として、マンガの世界はすでに確立されていますね。というよりも今は迷路に入っているのかも。昔みたいにマンガが好きで好きで書いている人は少なくなりました。線の変化みているとわかります。だんだん、アシスタント任せになって、線もくずれていくんです。




  人は処女作を超えられないとか。

  20代の作品をなぞりながら、自分を真似してる人は漫画家にもたくさんいますし、それは作家や画家さんでも同じでしょう。
   技術が上達しても失うものも比例してありますから。
   
  ゆえに、変わり続けることしか新鮮に生きる方法はなくなってくるんです。






  心のサプリ    













ふと。金原ひとみ。











  心のサプリ    

 小説の方の、金原ひとみは、確かあの当時は村上龍が審査員ということで、芥川賞をとりましたネ。
文芸春秋でも読みましたが、なかなかの力作。感性が半端ではありません。
まあこういう本を読む時には、イギリスにおられるオスカー・ワイルド氏の言ではありませんが、あらゆる書物は道徳的に書かれているかどうかであって、道徳的な、あるいは反道徳的な書物はないということでしょう。
 サドの本だって某作家から言わせると、サドはモラリストだと言いますし、視点を変えれば本の色彩はカメレオンのようにころころ変わって行くものです。その本の真価というものは時間がたたないとわからないものかもしれません。

 個人的に、私は金原ひとみが好きだというわけではありません。
ただ、この漫画家渡辺ペコ嬢の線が好きであり、魅力的だと思う。
このふたりの奏でるデュエットとも言える作品に惹かれるのであり、若者の感性というものはいつの時代でも、良くも悪くも、最初はへんてこりんなモノだとも思います。
ただ、この作品の刺青のシーン。つまりタトゥーです。
 敬愛する谷崎の「刺青」のことを考えていました。

  心のサプリ    

  心のサプリ    

 誰しもが知っているように、その昔日本人は独特の美意識によって、中国から明確な「好き嫌い」で入れるものと入れないものを峻別してきましたが、この「刺青」は入れています。そして、「纏足」は入れていませんね。

 いつしか、この刺青は、「その世界」の人のモノとしてのイメージがついてしまいましたので、私くらいの世代の人間は皆、あまりプラスのイメージを持っている人はいないでしょう。

 小さな頃。
 まだ家庭に風呂などありませんでしたから、我が家では、遠くまで家族で歩きでてくてく、公衆浴場まで行っておりました。
 独特の汗や畳の匂い。今でもはっきり覚えています。(まあこれは今でも公衆浴場に行けば同じ匂いがありますが・・笑い)
 力道山のテレビを皆が見ていたり、大鵬の相撲を皆が拍手をしながら見ていました。

 そこにいました。
 背中に小さな彫り物をしている男性。
 小さな私なりにじろじろ隠れ見ていましたが、男性はもうかなりの老人でしたが、彫り物のその青の色がてかてか光って、不気味だったことを覚えています。^^

 谷崎潤一郎氏の「刺青=しせい」は、無垢な16歳の娘が、そのまれに見る白い足をもっていたために、彫り物絵師の目にとまり、残酷絵画を見せられその彼女の奥底の性癖を見抜かれます。そして、次第に、絵師の心に惹かれた娘は背中に女郎蜘蛛の刺青をすることになるんですネ。
 そして、世界の男はお前の肥やしなのだという言葉が事実である実感を体の奧に感じながら娘は、苦痛に耐えて背中に蜘蛛の刺青を完成させます。

 ほんとの5 6ベージの短篇ですが、まさに、文学の本質は「夜」、「エロティシズム」、「生命や魂の奥の奥の井戸まで達するような冒険」なんだというのがわかる大傑作です。

 金原ひとみと渡辺ペコのデュエットとは比較しようもない傑作ですが、ただ、刺青のことをちょいと調べてみれば世界のどの国でも若い人は皆やっています。
 その意味では、この刺青、もう谷崎の小説の絵師のような天才彫り物師はいないと思いますが、「夜のエロティシズム」に感化され、魂に色彩をつけたいという人はかなりいるんだと思いますね。

 誰が眉をひそめたって、若者なんかには通用しません。

 






道義心と臆病は実は、同じ事だ。

                   
 道徳は、われわれが個人的に好かない人たちに対してとる態度だ。



人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかだから。





 上記、3つの格言。すべて、オスカー・ワイルド


「ドリアングレイの肖像」が一番すきですが、彼のドラマもあります。




 彼は最後の最後に、刑務所に入って、懺悔録を書きます。
 有名です。









鍋ですが。

  心のサプリ    肉に骨がそのままついたもの、ゼラチン質と言うのでしょうか、独特の旨味ありますね。スペアリブともいうのでしょうか。
 豚足や、マグロの目の部分なんか、それに皆が捨ててしまうアラなんかも、それはそれは美味でございます。

 かつての江戸時代、あるいはスペインでは、マグロのトロの部分は捨ててしまったものが、いまや、一番高くなっているのは、だんだん人の舌が肥えてくる、つまり進化してくるということでしょぅか。


 進化?

いや、エスカレートしてくるのでしょう。


このポネ鍋。

 骨のまわりの肉のことをアイヌの人達が「ポネ」と言っていたらしい。目を細めてもぐもぐ食べながら、ポネポネ言いながら食べていたのでしょうか?

 

  心のサプリ    






「食べること」を考えると、いつも思い出す映画は、この映画です。

◎幸福のレシピ

 

 




『幸せのレシピ』(原題: No Reservations)は、2007年のアメリカ映画である。スコット・ヒックス監督作品。2001年のドイツ映画『マーサの幸せレシピ』のリメイク作品。

 以前ブログにもアップした、ユーガータメールと同じく、良き作品は、リメイクが多いですね。
 俳優とディテールのみ変えて、物語は同じで、十分に楽しめます。さらなる飛翔も。




 個人的で、勝手な解釈ですが、アメリカ合理主義に疲れた人間達が、ある意味おおらかで、神秘性も大事にするイタリア的な場所や人間に次第に感化され、癒されていく。


 このテーマは私にとって大変興味深く、いつも考えています。
 そして、何回もブログに記事を書いています。


 


知らぬ人には無愛想、知る人には愛情いっぱい。これが日本人には極端すぎる。
・・・・・・・・・・・・・・・淀川長治





                FIN

「五台のコントラバスが興じる美」の夜  岩見沢市教育大学のプチ・コンセール

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昨夜の「五台のコントラバスが興じる美」。

岩見沢市教育大学のメンバーです。

 

彼らが、一生懸命に演奏する姿が、素晴しく、やはり音楽はみんなで「生」で音をきくことだなあと、思いました。

 

そう、「生」=ライブ感覚、に勝るものはありません。

すべてのCDの音は、生のライブの音をいつもめざしています。

 

技術面ではもちろん学生たちですから、聞いていて、あれ? というようなところもありましたが、十分に私は個人的に楽しめました。

 

 

ということで。彼らの若さと、これからの未来に、拍手しながら。・・・・・・

 

いつものように、プロの演奏家たちが、同じ曲をどう演奏するかを、忘れっぽいわたしなので、記憶するためにも、ここにコレクションしておくことにします。

 

 

とりあえず、UP。

間違いなどは、友人のO氏が発見してくれることでしょう。

まずは楽しんで。・・・・・・・

再発見を楽しみながら。

 

◎「星に願いを」

 

 

◎資料 1940年のディズニー映画『ピノキオ』の主題歌としてジミニー・クリケット(コオロギ)が歌った。実際にはジミニーを演じたクリフ・エドワーズが歌い、その年のアカデミー賞の歌曲賞を獲得した。なお、この曲はアメリカン・フィルム・インスティチュートによる、アメリカ映画主題歌ベスト100の第7位(ディズニー関連作品では最高位)に入っている。

 

ディズニー・クルーズ・ラインの周遊船のうちディズニー・マジックとディズニー・ワンダーは『星に願いを』の最初の7音を鳴らすエアホーンを装備している。

 

スウェーデンとノルウェーではクリスマスソングになっており、ベツレヘムの星について歌っている。スウェーデン語ではSer du stjärnan i det blåとといい「青(い空)の中に星を見る(か)」という意味である。

 

ルイ・アームストロングのアルバム『サッチモ・シングス・ディズニー』のバージョン等、多くのカバー・バージョンが存在する。

 

◎「亡き王女のためのパヴァーヌ」

 

 

 

◎資料

ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える。諸説あるが、ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時にあった、17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが描いたマルガリータ王女の肖像画からインスピレーションを得て作曲した、とされる[3]。

ラヴェルはこの曲を自身のパトロンであるポリニャック公爵夫人に捧げ、1902年4月5日、スペインのピアニスト、リカルド・ビニェスによって初演された[4]。この曲は世間からは評価を受けたが、ラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されなかった。ラヴェル自身もこの曲に対して、「大胆さに欠ける」、「シャブリエの過度の影響」[5]、「かなり貧弱な形式」と批判的なコメントを行っている。その後行われた演奏もテンポが遅く、だらけたものであった。ある演奏会が行われた際、ラヴェルがこの曲を演奏したピアニストに対し、演奏後に「これは『王女のための亡きパヴァーヌ』ではなく『亡き王女のためのパヴァーヌ』であるのだ」と指摘したこともあった。

 

◎資料その2  下記の絵は、ウィーン美術史美術館にあるディエゴ・ベラスケスの有名な「マルガリータ王女」です。マルガリータ王女の幼いころの肖像画が3作品あります。それぞれ「バラ色のドレスのマルガリータ王女」「「青いドレスのマルガリータ王女」と呼ばれています。 

 

「バラ色のドレスのマルガリータ王女」

 

白いドレスのマルガリータ王女」

 

「「青いドレスのマルガリータ王女」

 

◎ヘンリー・エックレス  sonata in g moll

ヘンリーエックレスは、イギリス生まれの作曲家・ヴァイオリニストです。 イギリスの宮廷に仕えた後、フランスに渡ってパリのフランス国王の楽団で活躍しました。 1720年に「ヴァイオリンのための12のソナタ(独奏曲)」をパリで出版しました。

 

 

 

◎フランツ・シマンドル  variations for trio

 

variations for trioのクリップはどうしても、探せませんでした。

etudeです。

ピアノとの共演を見つけました。

 

 

 

◎資料

フランツ・シマンドル(Franz Simandl 1840年8月1日 Blatno - 1912年12月15日 ウィーン)はボヘミア出身のオーストリア帝国のコントラバス奏者および教育者。『新コントラバス教本』(独: Neueste Methode des Contrabass-Spieles, 英: New Method for the Double Bass)(もしくは単に『シマンドル教本』と呼ばれる)の作者として良く知られており、同書は今日までクラシック・コントラバス奏者向けの最もスタンダードな運指メソッドの教材として用いられている。[1]

 

彼のメソッドにおいては、指板上の低音部では左手の第一指、第二指および第四指のみを押弦に用い(第三指および第四指を一つの単位として同時に用いる)、指板上の各部をいくつかのポジションに分けて捉えていく。同書の第二巻では「サム・ポジション」すなわち指板上高音部での奏法に主眼を置き、親指、第一指、第二指と三指を用いたソロ演奏を扱い、またここでもポジション分けを用いる。この第二巻ではハーモニクスの使用法も詳しく扱う。

 

シマンドルの「新奏法」は今や一世紀以上の歴史があるものとなったが、今日でもクラシック・コントラバス奏者の間ではよく見られるものである[2]。しかしながら彼の著書そのものは近年の教育理論を取り入れたメソッドによって徐々に取って替わられつつある[3][4]。シマンドル教義の翻案版や拡張版、また対抗版といったメソッドも今日広く認められる所である[5][6][7]。

 

シマンドルはプラハ音楽院でJosef Hrabeに師事、その後ウィーン国立歌劇場の第一コントラバス奏者となった。ウィーン国立音楽大学の教授を1869年から1910年まで勤め、[8] 彼の教え子からは当時多くの一流奏者を輩出している。ニューヨーク・フィルハーモニックの第一コントラバス奏者であり、教育者としても功績のあるLudwig Manoly(英語版)などもその中の一人である。

 

シマンドルを「祖」とする師弟関係の「家系図」は幾つもの世代にまたがり、多くの著名なベーシストの系譜を辿ると彼らの多くはシマンドルへと戻っていく。ゲーリー・カーやルートヴィヒ・シュトライヒャーもそういったベーシストの中に含まれる。

 

◎スコット・ジョプリン   The Entertainer 

 

 

ピアノ演奏が多いですが、ひとりヴァィオリンのクリップがありましたので、ここに。

 

よくヴィオリンと、チェロと、コントラバスの違いは、という疑問がでてきますが、要は、大きさとかたちでしょうか。

□4本または5本の弦を持つ大きな弦楽器である。略号は「Cb」。単にバスもしくはベース(Bass)(英語圏ではこの呼び方をする人が多い)、ダブルベース(英語起源)、ストリングベース(英語圏においてエレクトリックベースに対し)、ウッドベース(和製英語)、弦バス(日本の吹奏楽において管楽器バス(チューバ等)に対し)、アップライトベース、アコースティックベース(ポピュラー音楽でエレクトリックベースに対し)、ベース・フィドル(ケルト系の音楽でヴァイオリンの呼称であるフィドルに対して)とも言う。呼称が多いのは、コントラバスがさまざまな場面で使われることの表れである◎◎資料

 

まずコントラバスの大きさから見て行きましょう。僕の持ってる楽器は普通の楽器より少し大きいサイズですが、高さが199cmです。

一応サイズは170-200cmと言われています。最小値は最大値の75%ですね…。ちょうどいいサイズのワイシャツ買ったと思ったら袖口丸ごとなかったぐらいの差です。

次は重さです。色々な方から話を聞くと、10-15kgくらいです。我が家には体重計がないので重さはわかりませんが、僕のは軽い楽器なので10kgくらいだと思います。重さはすごいバラつきですね。最小値は最大値の66%です。

このように、大きさ、重さにかなりのバラつき(差ではなく比で)があるのがコントラバスです。

 

コントラバスとチェロの違い


では本題。一番間違えられやすい、コントラバスとチェロ(またはバイオリン、チェロ)の違いについてです。

かなりざっくり言うと、背負えるサイズだったらチェロです!!

このように資料にありました。

 

 

◎資料スコット・ジョプリン(Scott Joplin, 1868年11月24日 - 1917年4月1日)はアメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家。ラグタイムで有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」(King of Ragtime)と呼ばれている。

 

    1868年 テキサス州リンデン(en)の近くで、黒人元奴隷農夫の父ジャイルと母フロレンスの次男(6人兄弟)として誕生。

    1875年(7歳)家族と共にテキサス州テクサーカナに移り住んだ。早くから音楽的才能が現れ、バンジョーを上手くこなした。両親は彼の才能を伸ばすことに力を貸し、特に母は生活費を削ってピアノを買い与えた。この時代の黒人は教育の機会が与えられず、仕事も限られていたので、「何か自分の身を助ける才能があれば」と願ったのだと考えられる。

    1876年(8歳)Julius Weissの指導で音楽を習う。

    ピアノは独学と言われるが、10代でダンス音楽の演奏家になった。

    1882年頃(14歳)親元から離れ、ミシシッピー川流域のサロンの1つメープルリーフ・サロンで演奏、白人の音楽出版者ジョン・スターク(英語版)に出会う。

    1890年(22歳)頃 セントルイスに移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏。

    1893年(25歳)シカゴのコロンビアン・エクスポジション隣接のスポーツ・エリアで演奏。

    1894年(26歳)ミズーリ州セダリア (Sedalia) へ移り住む。そこから、8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、ニューヨークまで演奏旅行をする。

    1895年(27歳)クラシック音楽のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。これは後日、音楽ジャンル「ラグ」として認知されるようになった。

    1896年(28歳)9月16日カンサス&テキサス鉄道会社(en)(The Katy, K&Tの意)の宣伝のためにテキサス州wako近くで行った車両同士の正面衝突(en)(衝撃によるボイラー爆発で、5万人の観客の一部に破片が飛び、結局2名死亡と重傷者の出る大事故になったが)にジョプリンは作曲へのインスピレーションを感じ、"the Great Crush Collision" を作曲した。

    1899年(31歳)この頃から以後15年間にわたって多くのラグが生れるようになった。

    1900年(32歳)セントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品「メイプルリーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)」を発売し、大成功を収める。

    1901年(33歳)スコット・ハイデン (Scott Hayden) と共に"Sunflower Slow Drag"が生れる。ハイデンの妹、ベルと結婚したが、彼の音楽に理解が無く1903年に離婚した。

    1902年(34歳)代表作「ジ・エンターテイナー」を作曲。

    1903年(35歳)オペラ "A Guest of Honor" を作曲、このオペラは失われて残っていない。

    1907年(39歳)33歳の Lottie Stokesに出会いその後10年を幸せに送った。ベルと違い、音楽を愛していた。

    1911年(43歳)ニューヨークへ移り住む。オペラ "Treemonisha" や"Reflection Rag"を作曲。

    1915年(47歳)オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。それが精神的に相当な衝撃であったと妻 (Belle) は言い残している。

    1917年1月中旬 梅毒により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。晩年は認知症が発現し入退院を繰り返していた。

    1917年4月1日 死亡。死因は直接的には肺炎ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられる。

 

◎バッハ    Menuett

 

 

 

ゲリー・カーの「荒城の月」が素晴しいです。やはり、日本の曲がひとつくらいあっても良かったと思っていましたので、ここにコレクションしておきます。

 

◎資料

20世紀の音楽学者ハンス=ヨハヒム・シュルツェらによって、J.S.バッハよりも7歳年上の作曲家、クリスティアン・ペツォールト(1677-1733)の作品であるとの学説が出され、こんにちではその説がほぼ定着しています。

ペツォールトはJ.S.バッハと同時期に、超一流のオルガン奏者としてその才能を高く評価されていたほか、作曲家としても活躍していたのですが、現存する作品で有名なのは、J.S.バッハ作とされた2つのメヌエット(BWV.Anh.114とBWV.Anh.115)ぐらいです。

 

 

◎アドルフ・ミシェク  Double bass Sonata

 

 

 

◎資料

Nir Comforty - Basses

Asst. Principal

 

Nir Comforty is the assistant principal bass player of the Israel Philharmonic Orchestra (IPO) and an active solo and chamber musician. He collaborated with artists such as Tabea Zimmermann, Sergio Azzolini, Chen Halevy, Aviv Quartet and Jerusalem Quartet.

 

 

 

Born in 1976 in Haifa, Israel, Nir began his music studies with piano at age 6 and bass at age 14. He studied with Eduard Zlatkin, Peter Marck and received the America-Israel Cultural Foundation scholarships during all his study years.

 

 

 

Nir studied orchestral conducting under Prof. Mendi Rodan at the Jerusalem Academy of Music where he was awarded a B Mus. degree with honors. He continued bass studies in Germany with Günter Klaus and Stephan Petzold and graduated the H. Eisler Music Academy in Berlin. During his studies there, he played with three of the most important symphony orchestras in Germany: The Berliner Sinfonie Orchester, Deutsche Symphonie Orchester- Berlin and the Staatskapelle Berlin under the baton of maestro Daniel Barenboim.

 

◎モーツアルト  Ave verum corpus

 

 

 

◎ロバート・ロペス  Let it go

この曲もまた、いろいろな楽器演奏はあるのですが、・・・

なかなかコントラバスは少ないです。

とりあえず。

プロかアマかは、ともかく。

 

ピアノと、ヴァィオリンのクリップは発見。

 

 

 

 

 

ロバート・ロペス(Robert Lopez、1975年2月23日 - )は、アメリカ合衆国の作曲家。フィリピン系アメリカ人。ニューヨーク・マンハッタン生まれ。ミュージカル『アベニューQ』、『ブック・オブ・モルモン』、映画『アナと雪の女王』などの作曲で知られる。

2004年に『アベニューQ』でトニー賞、2008年と2010年に『The Wonder Pets』でエミー賞、2012年に『ブック・オブ・モルモン』でグラミー賞、2014年に「レット・イット・ゴー」(『アナと雪の女王』の主題歌)でアカデミー歌曲賞を受賞した。エミー賞・グラミー賞・アカデミー賞・トニー賞の4つの賞を受賞した12人目の人物であり、10年の期間で受賞したのは最短記録である。

2014年、アメリカの雑誌「タイム」が毎年発表している世界で最も影響力のある100人のリスト「タイム100」の一人に妻クリステン・アンダーソン=ロペスと共に選ばれた。

 

 

 

 

◎資料

MIki Matsubara - 真夜中のドア / Stay with me

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MIki Matsubara - 真夜中のドア / Stay with me


エレキの神様(寺内タケシ)&天才エレキ少女(ちっちちゃん) 夢のコラボ~パイプライン

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ちっち、昔から気になるギタリスト。
こんなクリップみつけました。


きっと、すぐに、なくなると思いますので、好きな方は、保存をおすすめします。



































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ちっちも、こんなに大きくなったんですね。でも、魅惑の、笑顔はかわりません!!!!!!!!

岩見沢市プラス一度。春の雪。

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岩見沢プラス一度ですが、雪!さむいような、温かいような、でも、やはり、まだ、春は来ないなあ。いや、来てるかな?(^_^)散歩スタートします。

春の雪は、桜みたいに、舞います!(^_^)

介護と絵と夕飯

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本日、昨日の夜に雑務を完了して良かったです。朝からたっぷりの時間ができ、comicと、oilpaintingの時間もいつもよりもとれました。朝の光のなかで描く癖がついていますので、夜は、なかなか描けません。

 

介護父の夕飯も本日は、弁当にしてもらいました。

私の手料理ばかりでは、美味くもありませんし、^^ たまに弁当も新鮮でしょう。四季の弁当と書いていました。

あと、うどんは、おそらく、食する時には、やわらかくなりすぎているとおもいますが、介護父はそれでいいと言いますので、とりあえず野菜と烏賊のスープだけでも、食してもらおうと。笑。

私は、そんなわけで、280円の安寿司。ここ日本のど田舎では、寿司だけは安いので助かります。赤ワイン一杯と、ともに。

 

絵は、友達から描いてくれと依頼されている風景画ですが、これからもう少し、筆を加えて行きます。最初は、散歩の途中の風景なので、冬にしていたのですが、春も近くなりましたので、春から夏というイメージに変更いたしました。^^ いよいよ、これから、本番のかき込みです。どんな感じになるのか。笑。

 

虎次郎の水彩と油絵も仕上げが待っています。

最初は、一枚と思っていましたが、やはり、二枚くらいはださねばと。F30号描いています。これもまた、あと、一ヶ月くらいはかかるでしょう。まだまだです。

散歩スタートします。

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岩見沢マイナス3度。風なし、快晴、最高の散歩です!
道は、ほぼ、とけました!

大忙しの核核酸食 イワシ丸焼き

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昨日は、夕飯を友達と食べる予定が、急にきまったので、昼は、軽めに、介護父は、

目玉焼きに、コーン、ソーセージの焼いたもの。ソーメンと、汁=タマネギと牛肉ベース。

私は、麦ご飯と、イワシの丸焼きです。美味。

イワシは嫌いな人が多いですね。信じられません。

 

 

核核酸食のなかでは、最高峰。注意は、水を多めにとること。それを怠ると、通風になります。私はこの40年間、この核核酸の食事を続けていますが、通風値は異常ありません。やや高めですが医者から注意を受けたことはありません。水を一リットルは最低飲んでいます。あと、酢をかかさぬようにしております。

昨日の友人との語らい 

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小学校以来の友人と、「和み」で食事。

明日(今日)は、満月ということで、月がきれいな夜でした。

 

本について語ると、この友人Iが、一番詳しい。

参考になることがたくさんあり、また共感ありと、楽しき時間をすごしました。

二次会は、無理せずに、バーで、バランタインを一杯2杯。はやめに、ひきあげました。

なんせ、明日(今日は)満月ですし、サウナにも行く予定ありですから。

 

歩きで帰宅しましたが、満月のキレイなこと、綺麗なこと!!!

自然の畏怖を感じました。

Carpenters Yesterday Once More


芸術家たるものは道徳的な共感をしない。芸術家の道徳的な共感はゆるすべからざるスタイル上のマンネリ

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 このシネマは、疲れたサラリーマンさんやOLさんが、見てすかっとするというようなシネマではないですね。


 監督は、私のフェボリット「ビッグ」の監督。ゲイリー・ロス・・・
この「ビッグ」は最高でしたね。
 トム・ハンクスが子どもの魂のままに、大人に変身して、おもちゃの社長に抜擢されるというコメディでしたが、不思議なファーストシーンも含め、楽しい映画でした。
 何回も見ました。




 また、この監督は、大統領の影武者になってしまう平凡なる男を描く「デーブ」や「ラッシー」もつくっております。

 

 

 

 


 でも、やはりこの監督では、「ビッグ」が一番おすすめですが・・・



 


さて、この「ハンガー・ゲーム」


たしかに、正義の味方が悪の巣窟に乗り込んで行って、徹底的に悪を叩きのめすというような、映画だけに許される21世紀の映像効果のなかで、見ていて、スカッとするというような
アクション映画は、人気があるでしょうが。


そんな映画とはちょいと、違います。

 

 

たとえば、「エコライザー」個人的に、私の大好きな映画ですが、ただのアクションだけではなくて、孤独な黒人の主人公が、ロシアマフィアに魂と体をとことん吸い取られている少女を助けるために、マフィアの巣窟のただひとりで乗り込んで行くというところなどが、圧倒的な映像で、これこそ、カタルシス映像となっていますが、
そのようなシネマではないということです。
 

 

 

 

 

 

 


 この映画「ハンガー・ゲーム」は、ちと、違います。


 それに、アメリカでは、観客動員数などでは大ヒットとなっておりますが、日本での、レヴューなどを見ると、ひどいものです。
 駄作などという評価もけっこうありますね。

 だから、スカッとするアクション映画を期待して見たらそのような評価になるのでしょう。


 でも、淀川長治さんがいつも言っていたように、どんな駄作であっても、良いところがひとつやふたつはあるのです。
 そういうところを発見して、映画と楽しくつきあっていく。
 人間関係と同じです。

 これだけの、金をかけてつくった大作ですから、小説とは違って、別の作品になっていることはあたりまえですし、この21世紀の映像の可能性という観点からのみ、見ても、なかなか
すごいシーンはたくさんあります。

 ただ、スカっとする映画ではないということ。








 連想を勝手にすると、「アメリカン スナイパー」でしょうか。

 

 

 


 アメリカの9.11のテロに怒った、ひとりの男性が毅然とテロの敵地に乗り込み、彼の射撃の天才ぶりが、見物の実話をもとにした作品。

 漠然とした敵のイメージ。
 それが、しだいに悪人というイメージから、武器を持つ小さな子どもや普通の主婦までも、射撃せねばならないという立場に・・・・・・・・・


 彼の心のストレスと、葛藤。戦いが皿な戦いという矛盾に考えさせられる。
 さすがは、クリント・イーストウッド監督。
 ただの戦争映画ではなく、戦争そのものの、矛盾性みたいなものをつかみだそうとしているのでしょうか。
 ですので、ただの反戦映画みたいな薄っぺらい映画ではなく、見応えのある作品です。
 
 ◎資料から
クリント・イーストウッド監督最新作『アメリカン・スナイパー』はイラク戦争に4度にわたって遠征、アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー、クリス・カイルの半生を元に、残酷な戦場と幸せな家庭の狭間で精神が崩壊していく・
 





 だから、私は、この「ハンガー・ゲーム」を見ながら、まったく違う映画ですが、なにやら、連想していました。勝手な連想は私の自由ですから。


 映画は、「人生の勉強の場」ですから。=「淀川長治映画の10ヶ条 」
 そしてまた、「頭で見るのではなくて、感覚で見よ」と・・



 妹の身がわりになって、自身「ハンガー・ゲーム」に身を投じる、
ジェニファー・ローレンスがまた、個人的には素敵ですね。
 愛がもらえます。



いわゆる、ハリウッド女優のような、気品のある美しさというよりも、逞しい生命力を持った少女というイメージでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3/24日でしたか、この作品。はやく見たいです。

楽しみなんていうものではありません。予告もすごいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・ところで、「ハンガー・ゲーム」



 この映画のなかで、悪役のスノー大統領を演じるサザーランドが、彼女については絶賛しております。

 「ジェニファーと初めて会った時、ワクワクしながら彼女を見たんだ。彼女は最高に立派な女優だと思う。鋭い感性と他の人にはない才能からくるものだと思うよ」



「スノー大統領として再び戻ってきた撮影日の初日は、ジェニファーと二人きりのシーンだった。原作でも最初に来るシーンだ。私にとって最高に嬉しいシーンだったよ。

  彼女は天才だから、情報に耳を傾け、それを自分の中で魔法のように混ぜ合わせることによってキャラクターを出現させるんだ。彼女は真理や誠実性を発信するたぐいまれな存在だよ。彼女が演技していると時が止まるんだ。時が止まって、外の世界の何物も彼女の邪魔はできなくなる」


 そして、スノー大統領が少女カットニスや自分の役柄などをこんなようにも興味深く語っています。

「スノーはカットニスの存在がこれまで味わったことのない脅威だと初めから直観で分かっていたのだと思うね。彼女のことを最も恐れているが、一方で愛すべき脅威なのだ。私も77歳だからわかるんだが、突然人生の最後に自分を試される喜びを感じているんだよ。自由を求めて戦う彼女は、スノー大統領にとって他にはどこにもいない“特別な存在”であり、チェスゲームで負かそうとしている感覚を実は喜んでいるんだ。彼はもし彼女が自分の味方だったら、自分の後継者として完璧な人間だということを認識するんだ。そこで、それが出来るかどうかを見極めるのが彼の任務となる。彼は冷静で、“こうすれば、すべてが駄目になる。こうすれば、大丈夫だ。”とカットニスにとても明確に説明するんだ。彼がカットニスと一緒に居る時や、彼女を見る時に喜びを感じたりするところは実に面白いよ。彼が性的な男だったらカットニスを欲しがるだろうが、彼はそうではないからね。彼が求めているのはバラだけなんだ」





 ところで。このヒロインカットニス演じるジェニファー。

 彼女の映画は、なんといっても、「ウインターズ・ボーン」。










 どこかで、見た顔だなあとぼんやり思っていたら、やはり、この「ウインターズ・ボーン」でした。


 不思議な作品で、私は、一本見るのに、数日かけました。
 小説を読むように。


『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは「『ウィンターズ・ボーン』は忘れ難い」と書いていますし、「グラニクはこの目を離せない激しさと感性を伴った、危うく際どい題材を捌いた」「グラニクはローレンスという若く優れた女優にリーが宿っていることを見出した。彼女の演技は演技を超えた、迫り来る風雲である」と記載されています。


 また。

(サンダンス映画祭でドラマ部門のグランプリに輝き、第83回アカデミー賞では4部門ノミネートされた。そのほかベルリン国際映画祭で2つの賞を受賞、インディペンデント・スピリット賞で7部門にノミネートされ2部門を受賞するなど、あわせて92個の賞にノミネートされ、うち35個を獲得した。)


 見た方も多いでしょうが、暗い冬の空のような映画ですが、じわじわと、考えさせられます。
 日本は、ここまで酷い地区のイメージがわきませんのですが、実際にこのような村があるようなので、アメリカ人にとっては、魂に響くのでしょう。


 ジェニファー・ローレンス・・・彼女でもっているような映画です。
 この「ハンガー・ゲーム」。


 東洋人顔というか。日本人的な雰囲気というか。
 顔の彫りの深い、ジュリア・ロバーツのような顔ではありませんが。


 味のある顔で好きです。

 個人的には、ビョークのような不思議感覚オーラがでている彼女の顔。



 10代の頃。



と、20代の今の彼女。洗練されてきました。・・・・・・・






 

あと。

私が見た彼女の作品としては。
この映画。
◎資料『あの日、欲望の大地で』(あのひ よくぼうのだいちで、The Burning Plain)は、2008年アメリカ合衆国のドラマ映画。脚本家ギジェルモ・アリアガの映画監督デビュー作であり、第65回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門で上映された。



「あの日、欲望の大地で」・・・
これも、駄作とか、不倫の映画だとか、レヴューにはありますが、もともと、道徳を教えるために映画やその他の小説やマンガや音楽が、あるわけではありません。

 

 


 道徳や社会の規律などを、超えたところにある、なにか、真の命みたいなもの、道徳を超えた美。

 

 

 シェイクスピアではありませんが、キレイはキタナイ、キタナイはキレイ。
 簡単に道徳を叫ぶのなら、映画を見なければいいのですから。


 尊敬するオスカー・ワイルドは、こんな美についての言葉を残しております。ドリアングレイの肖像という小説の序文なのですが、二三、記載しておきます。


 
○道徳的な書物とか非道徳的な書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。
ただそれだけしかない。

○芸術家たるものは道徳的な共感をしない。芸術家の道徳的な共感はゆるすべからざるスタイル上のマンネリズムである。

○芸術家たるものはけっして病的ではない。芸術家はあらゆることを表現しうるのだ。

○美なるものがただ「美」をのみ意味しうる者こそ選民である。




 この「あの日、欲望の大地で」のなかの、三人の女性達。
 すごいです。


 その末っ子の役を、ジェニファー・ローレンスが、やっておりました。


 映画は、配役の俳優のことを少し予習してから見ると、映画のおもしろさが、数倍にもふくれあがりますね。


 そのことを感じさせてくれた、この「ハンガー・ゲーム」でした。(ピーター役の男優やら、その他の俳優さんたちは、存在感がなぜか薄いです。きっと私が、彼らの他の映画のことをまったく知らないか、勉強していないからでしょうが・・・)




 あと。
 この映画は、日本の「バトル・ロワイアル」に作品の構造がよく似ているのではないか、と言われています。

 

 

 下のクリップにもありますが、このような、物語の筋じたいが、不愉快という批評も、うなづけます。


 「図書館戦争」に比較すると、戦闘シーンは、よく表現されていますが、この物語の設定自体が、残酷きわまりないものですから。


 見たくない人は見ない方が良いと思います。



 自然界を見回しても、「殺戮」を好んでやるなんていう獰猛なる生物は、人間くらいなものでしょう。


  ただ、この殺戮シーンは限りなく、少ないです。

 そのことだけが、目的ではないと監督が影で言っているようです。



  革命という美名の下に隠れた名誉欲やら、マインドコントロールやら、人間のどうしようもない煩悩や、ウソや、偽善・・・・・・・・

  そんなものもまた、描きたかったのかもしれませんね。


  





  個人的には、これから見て行く映画はやはり、ハッピーエンドになってもらいたいものですね。

  (過去の名作などには悲恋ものや、アンハッピーエンドが多いのは、それはもう見た映画ですから、いいのですが、歳をとると、もう悲恋ものや不幸ものは、心がついていけません・・・)




 映画の楽しく見るこつは、偏見や、レヴューなどにまどわされることなく、監督や、俳優たちを見て、自分でピンときた映画を、丁寧に、見ることが大切ですね。

 いろいろな見方があるのだと思います。


 ひとつの映画をいろいろな人が見て、いろいろな感想を持つ。
 小説を何回も繰り返して読むと、年齢とともに、味が違って感想を持てるようになるのと、同じく、映画も、好きな映画は、何回も繰り返してみると、また違う楽しみ方もできるということですね。


 それに、洋画は、なんといっても、英語のヒアリングの勉強にはもってこいです。(私は、邦画の方がほんとうは好きなのでもっと映画の感想を記録したいのですが、今は、ヒアリングにはぴったりの洋画中心に見ています。この「ハンガー・ゲームは、ヒアリングとしては、非常に聞き取りやすいレベルです。)


  







 「映画は人生勉強のテキスト・人生の勉強の場」ですから。=「淀川長治映画の10ヶ条 」
 

 淀川さん  ありがとうございました!!!!!!!!!  私の映画の心の恩師です!!!!

 

 映画は素晴しい!!!!!!!!!!!

 

  


















 ◎資料 「ウインターズ・ボーン」
サンダンス映画祭でグランプリ&脚本賞の2冠に輝き、アカデミー賞では作品賞、主演女優賞、助演男優賞、脚色賞の4部門でノミネートされた、インディペンデント映画界の意欲作。ダニエル・ウッドレルの同名小説を基に、ミズーリ州の山間部の村に住む17歳の少女が、家族を守るため父親を捜しに、そして真実を追い求めて旅をする。心のすさんだ大人たちから罵声を浴びようとも、暴力に打ちのめされようとも、くじけず、諦めず…






◎資料『アメリカン・スナイパー』
『アメリカン・スナイパー』は、アメリカ合衆国で製作され2014年に公開された伝記映画である。 原作はイラク戦争に4度従軍したクリス・カイルが著した自伝『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』で、脚色はジェイソン・ホールが行った。監督はクリント・イーストウッドで、ブラッドリー・クーパーが主演を務める。



 ◎
 資料『バトル・ロワイアル』

中学生達が殺し合いを強いられるという内容。第5回日本ホラー小説大賞の最終候補に残ったものの、審査員からは「非常に不愉快」「こう言う事を考える作者が嫌い」「賞の為には絶対マイナス」など、多くの不評を買い、受賞を逃す[1](選者の1人が後に書くところによると、最大の落選理由は作品的に落ちるからであり、しかし、おもしろいから売れるだろうと、別の場で語り合っていたとされる[2])。 その後、1999年4月に太田出版から刊行され、先述の事情と共に話題を呼ぶ。2002年8月には最低限の修正(ミス部分など)を施した上で文庫化され、幻冬舎より刊行された。
また、深作欣二監督、藤原竜也主演で映画『バトル・ロワイアル』が2000年12月6日に公開された。公開前には国会でこの映画に関する質疑がなされ、また西鉄バスジャック事件を初めとする“少年犯罪”が注目された時期でもあり、社会的関心を集めたことで話題を呼び、大ヒット作となった。
題名の「ロワイアル」はフランス語読み。執筆段階では「バトル・ロイヤル」と言う英語の題名だったが、作者が友人に見せて感想を求めた所、フランス語好きだったその友人による「フランス語で読むと『バトル・ロワイアル』だな」との返事から、語感がよかったので題名を変更した。正しく仏訳すると「Bataille Royale」(/ba.tɑj ʁwa.jal/, バタイ・ロワイヤル)になる。
以下、原作の設定を中心に記述する。漫画版、映画版もこの設定に準拠するが、体制、小道具の名前等々、異なる点は幾つも存在する(原作と漫画版は大東亜共和国という架空の国、映画版は現在の日本の体制の延長線上)。




この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように加筆を行ってください。(2014年9月) (使い方)
極東の全体主義国家「大東亜共和国」では、西暦1947年より、全国の中学3年生のクラスからランダムに選ばれた50クラスに対し、「プログラム」と称する殺人ゲームを実施していた。
西暦1997年、七原秋也ら香川県城岩町立城岩中学3年B組の42人は、修学旅行のバスの中で眠らされ、ゲームの舞台となる島「沖木島」へ送り込まれた。極限状態の中、クラスメイトによる究極の椅子取りゲームが始まる。



◎資料
ゲイリー・ロス(Gary Ross, 1956年11月3日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督。

カリフォルニア州出身。父親は1980年の映画『ブルベイカー』(原案)でアカデミー脚本賞にノミネートされた脚本家アーサー・A・ロス。 ペンシルベニア大学に通う[1]。はじめ漁船上で働き、大統領選挙キャンペーンに関わる、そして小説も書いた。のち脚本家になる。スティーヴンの妹アン・スピルバーグと共同脚本の映画『ビッグ』で、第61回アカデミー脚本賞にノミネート。その後も度々アカデミー賞の候補となっている。
おもな作品[編集]
ビッグ Big (1988年) 脚本・製作
ミスター・ベースボール Mr. Baseball (1992年) 脚本
デーヴ Dave (1993年) 脚本
Lassie/ラッシー Lassie (1994年) 脚本 - 日本では劇場未公開
Mr.ダマー2
1
2
Trial and Error (1997年) 製作 - 日本では劇場未公開
カラー・オブ・ハート Pleasantville (1998年) 製作・監督・脚本
シービスケット Seabiscuit (2003年) 監督・脚本・製作
ねずみの騎士デスペローの物語 The Tale of Despereaux (2008年) 脚本・製作 - 日本では劇場未公開
ハンガー・ゲーム The Hunger Games (2012年) 監督・脚本
The Free State of Jones (2016年) 製作・監督・脚本

サウナとホルモンの日々

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昨日は、Mと、サウナ。実は、うちの家から歩いて一分のところにも、サウナはあるのですし、よく行くのですが、ここのメイプルハウスのサウナは、フィンランド法式ですから、水をぶっかけながら、温度調節をします。

ですので、汗の出方が、まったく違います。

 

 


よく、東京のサウナにもいきましたし、日本中のサウナに泊まりましたが、100度くらいのサウナは熱すぎて、死にそうになりました。^^

ここは、その点、80から90度くらいでしょうか。
気持が最高になる汗の出方。毒素がぬけていく感じです。

水風呂も若い頃は、交互にはいりましたが、いまや63歳。
水風呂は心臓に悪そうなので、戸外で、サウナの熱をさまして、それでも、マイナス0度くらいの冷気ですので、五分も外で涼んでいると、簡単に汗がひきますので。

また、
サウナ。
また、冷気。
また、サウナ。
また、冷気。
また、サウナ。
また、冷気。

 


というわけで、四回くらいこれを繰り返し、身体が満足したところで、温泉に入りました。そして、着替えて、町中にもどります。

サウナ前は、けっこう忙しく、仕事を少しやり、虎次郎に餌をやり、介護父に夕飯をつくり、糞処理、部屋そうじをして、納豆ご飯だけ。

 

 

 

サウナで、良い意味で、からだはへろへろ。
喉はからから。
腹はめちゃ、ぺこぺこ。・・・・・・

ホルモン屋に行くと、たまたま、まだやっていない時間。
もんじゃ焼き屋で、ビールと、焼きそばだけをいただきました。

一杯目のビールの美味いこと!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

それじゃあ、ものたらず。
さっそく、最初のplanどうり、ホルモン屋へ。焼酎へと・・!!!!!!!!

ここは、値段も良心的で、私は肉よりもホルモンの方が好きなので至福の時間。
あんなことや、そんなことや、こんなことまで、Mと、話しをして、解散。

楽しき時間は、あっという間ですね。

 

 

すでに、満月そのものが、でていました。

 

 

なにごともなく、一日がすぎて、ほっとして、てくてくと、Mと、帰宅。
goodbyeをしてから、ひとり、また、小走りに運動をしながら、家にたどりつきました。

楽しきサウナとホルモンに、感謝。(不思議とサウナに行った翌日は、六時に目がさめます。^^)

 

の翌日 介護父の食事と、自分用、ポテトの酢焼き。

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 本日は、手抜き夕飯の準備ですが、昨日サウナへ行ったせいか、体調はばっちりでした。

 料理が面倒に感じる日もありますが、今日はたいした料理といえるものではありませんが、楽しんでできました。

 味も満足です。

 

 

 普段は和食、粗食ですが。

 本日は、昨日のサウナのせいか、スパゲッティを食したくなりました。

 

 野菜のトマトを二個使って、鶏肉と、バジルと、ロズマリーで味付け。塩胡椒のみ。

 

 

ハンバーグ&ポテトの酢あえは、夜の自分用。介護父は、本人の希望でまたまた牛丼。--^^

酢は、はまってしまいます。

昔から、酢が大好きでしたが、最近は、酢は毎日、どっぷり、使います。

 

あとは、いつものように、大根おろし、納豆、麹、鍋焼きうどんのミニです。

 

 

 

本日の散歩。

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岩見沢プラス2度。日も長くなりました。散歩スタートします!
中山美穂の、ローザを、聞きながら。 M、忙しそう。じゃませずに、散歩続行。Mの姿なし。^^

 

散歩は無理せずに、小走りに歩いたり、または、のんびり歩いたり、息と、お腹に、意識を集中して。

快食快便快眠の日々が続いています。

 

 

 

心を生みだす遺伝子/ゲアリー マーカス

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心を生みだす遺伝子/ゲアリー マーカス

¥2,940
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< 心を生みだす遺伝子 (単行本)
ゲアリー マーカス (著), Gary Marcus (原著), 大隅 典子 (翻訳) >

 こころと脳と遺伝子の関係。

実はこの本のことは松岡正剛ではないが、すぐに読まずに、昨年の夏頃からずっと考えてきた。頭が良くないので、たいしたことは思索もできないのだが、「わがままな遺伝子」理論に何か疑問と、不満が残った自分がいた。

 すべては遺伝子がきめる。
 ある意味で本当で、ある意味で違う。

 現代数理物理学者のロジャー・ペンローズは一般相対性理論やブラックホールについての研究で有名です。

 彼の「こころの影」という本の中で、彼は「人間の意識は量子力学の波束の収斂によって生まれる」という仮説です。
 人間の創造性はコンピューターでは再現できないと断言しております。

 ここが意見の分かれ目なところで非常にむずかしいところですが、還元論の科学者の人達は、人のこころと身体は必ずやひとつひとつのパーツにわけることができる。したがって、こころも身体もいつか「組み立てる」こともできるし、「つくる」こともできる、そう思っているのではないでしょうか。
 もちろん私は、素人ですから、間違っているのかも知れませんが、この「還元論」的な考え方には疑問を持ちますね。


 そして、このロジャー・ペンローズの仮説はそこから少し飛躍します。

 脳型コンピューターで有名な松本元さんは「愛は脳を活性する」という本の中で、コンピューターと人の違いは「愛」だと書いてます。

 つまり、人も脳も自分にとっての「快」と思われる情報が入ってくると、悦び、大脳皮質も神経回路をどんどんつくっていくわけですからね。

 「好き・嫌い」が人の脳などの神経回路に強い影響を与える。」これはすごいことですよね。
 ペンローズは脳の神経回路のニューロンのマイクロチューブル<微小管>の中でその量子力学的な現象が起こっていると考えていますが、もうここまでくると、イメージが湧きません。

 量子は光と同じく波の性質と粒の性質をあわせもつ不思議な存在なのですが、このあたりは、もっと勉強しないとかなり難しいですね。
 まあ確率という言葉でよくその現象を言い表しておりますがね。

 マイクロチューブルは、チューブリンというブロック材のようなものでできており、そのチューブリンの中にふたつの量子状態があるというのですね。
 そしてその二つの量子状態というのはコマが右回りにまわっているのと、左まわりにまわっているようなものだと言う。
  そのふたつの状態が重なって崩壊する時に、「波束の収斂が起こる時」に、計算不可能性が生まれるのであり、「意識」が生まれるという。

 このペンローズの仮説は、ORと呼ばれておりますが、いずれ、量子重力理論が完成して、ペン・ロジャースの仮説が正しいと照明されるのか、あるいは、それは永遠に解けない謎として「神秘思想」につながっていくのか、興味はつきないです。<私だけかもしれませんが・・・笑い>

 とまあ、一読しただけでは、理解したとは言えないような「心を生み出す遺伝子」でした。

 こころ、遺伝子、環境、これからの私の永遠のテーマにいたしましょう。


 心ない還元論の「この遺伝子はこの機能がある」、そんな単純なシステムで説明できるようなヤワな「命」ではないのですね。
 福岡伸一さんの「動的平衡」でものべられていたように、ひとつひとつの遺伝子の機能をやっつけても、他の遺伝子が協力しあってそれらの補足をしていくところはまさに「神秘」以外のなにものでもありません。

 

 

◎参考資料    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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