それぞれに・・・・
●資料
フランスのパリ生まれ。父親は俳優・写真家・作詞家のジョルジュ・ランギーニ、母親は画家のクリスティアーヌ・ジョベール。7歳で映画「Garde a vue」に初出演。1986年12月、13歳の時、レジス・ヴァルニエ監督の『悲しみのヴァイオリン』(La femme de ma vie)に出演し、また主題歌の『哀しみのアダージョ(彼と彼女のソネット)』(T'en va pas)を唄って歌手デビューする。1988年、ファースト・アルバム『Elsa』を発表。 叔母は女優のマルレーヌ・ジョベール。ジョベールの娘でボンドガールも務めたエヴァ・グリーンは従姉妹にあたる。
80年代後半から90年代は主に歌手業に専念していたが、2000年以降主にテレビにて女優業に復帰している。
T'en va pas
エルザ=『哀しみのアダージョ』(トンバパ)と言われる程ヒットしたこの曲は、ヒット・メーカーとして有名なRomano Musrmarraの作曲であり、リリース当時1986年は母国フランスで8週間連続チャート一位をキープし、130万枚の売り上げを記録した(ファースト・アルバム「エルザ」のライナーノーツの記述より)。日本においても、エドウィンの「サムシング」のCMや原田知世のカバーで人気を博している。なお、この曲は版権の問題でエルザのファーストアルバムに収録されなかったが、1997年のベスト・アルバム、及び幾つかのコンピレーション・アルバムに収録されている。
独特の甘さと切なさを含んだフレンチ・ポップスのトップ・シンガーとして高い評価を受けている、しかし、実の父親であるジョルジュ・ランギーニが作曲を担当する様になったファースト・アルバム以降は、本国フランス以外ではほとんど話題になっていない。これについて、多くのリスナーや評論家が楽曲の凡庸さを指摘している。
デビュー当時は同年代の歌手ヴァネッサ・パラディと比較される事が多かった。 ヴァネッサが英語アルバムを出したり映画へ出演し成功するなど人気は徐々にヴァネッサに軍配が上がった。 しかし、エルザの4枚目のアルバムChaque Jour Est Un Long Chemin以降は音楽的にも評価されており、 独自の路線を行く。
パリのオランピア劇場でメインアクトとしてコンサートを開いたのは史上最年少(1990年10月の時点で17歳)で、 フランスのチャートで1位を獲得した最年少(1986年の時点で13歳)女性歌手でもある。
1994年に、ドイツ人歌手ペーター・クローネとの間に男児を出産[1]。
1999年からサッカー選手のビセンテ・リザラズと婚約していたが、2006年に解消している。
Elsa Lunghini T'en Vas Pas (1986)
渡部昇一と宮崎美子が、三島由紀夫を語る
渡部昇一と宮崎美子が、三島由紀夫を語る。
という、朝から、わくわくして、見た、クリップのひとつ。
彼は、学者であるから、私は学生時代からお世話になって、彼の本はほとんど読んでいるけれども、
学者気質で、三島由紀夫氏の文学的な遊びやら、哲学をすこし見逃しているとはおもうけれども、
このようにして、自決後、数十年たっても、彼の文学を語ってくれるのは三島由紀夫ふぁんにとっては、嬉しい。
じっさい、春の雪は川端康成がその日本語を、極地であると絶賛した訳ですが、そのあとの生まれ変わりの三冊は、おまけと、彼は笑う。
これはじつは、ユーモアであり、ほんとうはそうは思ってはいないだろう。
しかしながら。
あの三冊まで、ほめあげれば、変人扱いされるし。
私は、変人なので、この全四巻は、彼の最高で最後の傑作だと信じている。
ある意味、もう文学を乗り越えて、はちゃめちゃな、遺書めいた、イマジネーションの産物、あるいは、デッサン力の天才の画家が、それに飽きて、最後に書いたアブストラクト、そんな感じ。
ファンから見ると。
何回も読みたくなる、四冊完結の豊饒の海なのである。
アサヒドライ ブラック 限定
女性たちの、サックス パフォーマンス !!!! 素晴らしい。
ネットで、岩見沢市出身。同じ高校だと知りました。
それ以来、心の中で、応援していました。
専門的なことは楽器はやりませんので、わかりませんが、
この手の、フリー・ジャズは、病みつきになります。
基本。
オーネット・コールマンとか、
ファラオ・サンダースとか、
もちろん、コルトレーン、の晩年、いいですねえ。
彼女、ののこさんも、素晴らしいです。
7/8日に、友達の車で、連れて行ってもらいます。ライブ。
・・・・・・・・・・
◉資料
1987年生まれ。
2006年単身ニューヨークへ。
ジョン・ゾーンとの出会いがあり。
◉資料
ジョン・ゾーン
ジョン・ゾーン(John Zorn、1953年9月2日-)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身のサックス奏者、作曲家、編曲家、インプロヴァイザー、音楽プロデューサー、バンドマスター。
フリー・ジャズ、前衛音楽、グラインド・コアなどの様々な音楽を吸収しており、ジャンルを特定するのは困難。親日家であり、歌謡曲のコレクターである。1990年代にはニューヨークと東京とを行き来し、高円寺にアパートを借りていたこともあった[1]。
1970年代中期から本格的に音楽活動を始め、1980年代に入ると、インディーズ・レーベルから何枚かのアルバムを発表。
1985年、エレクトラ・レコード傘下のノンサッチ・レコードと契約し、1986年にエンニオ・モリコーネ作品のカヴァー集『THE BIG GUNDOWN』発表。
1989年、ネイキッド・シティ(NAKED CITY)を結成。
1991年、ペインキラー(PAINKILLER)結成。
1992年、disk UNIONとAVANT RECORDS(アヴァン)スタート
Nakid City 5タイトルほか、jazz,world,rock,alterna,composers, ETC 各種シリーズを発売、後に Tzadik へ続く。
1994年、マサダ(MASADA)のデビュー作『MASADA:ALEF』発表。
1995年、自らのレーベルTZADIK RECORDS設立。
主なユニット
ネイキッド・シティ - ビル・フリゼール、フレッド・フリス、ウェイン・ホーヴィッツ、ジョーイ・バロンらと結成、ゲストに山塚アイを迎えてスタートしたアヴァンギャルド・ユニット。ジャケットに用いられているWeegeeの写真集"Naked City"(邦題『裸の街』)と同様の世界観を持つ。
ペインキラー - ミック・ハリス(元ナパーム・デス、スコーン)、ビル・ラズウェルと結成したフリー・ジャズ/グラインド・コア・ユニット。1995年にミックが脱退し、その後は吉田達也などが代役を務める。バケットヘッドがゲスト参加したこともあった。
マサダ - ジョーイ・バロン、グレッグ・コーエン、デイヴ・ダグラスと共に結成。クレズマーからの影響も取り入れたフリー・ジャズ・ユニット。派生ユニットとしてエレクトリック・マサダ、マサダ・ストリング・トリオ等がある。
ムーンチャイルド・トリオ - ジョン・ゾーンが作曲・指揮し、マイク・パットン、トレヴァー・ダン、ジョーイ・バロンの3人が演奏する、リード楽器不在のアヴァンギャルド・ユニット。アレイスター・クロウリーやアントナン・アルトーへのオマージュであるアルバム Moonchild: Songs Without Words を2006年にリリース。
小林香織・・・いいですね。^^小林稔が、お父さんらしいですね。
日本人独特の丁寧で、細密な音。
大胆さはなくとも、キュートで、締まったリズムと、バランスの良い音作り。
お酒飲みながら、聞く、female jazz sax最高です。
◉資料 小林香織
小林 香織(こばやし かおり、1981年10月20日 - )は、日本のジャズ、フュージョンミュージシャンである。アルトサクソフォーン、フルート奏者。神奈川県生まれ、東京都育ち。洗足学園音楽大学卒業。新星として、ジャズの世界で注目されている。父は写真家・小林稔。
次は、矢野沙織。
◉資料
小学4年の時ブラスバンド部でたまたまサクソフォンの担当となってこの楽器を始めた。小学6年の時にジャコ・パストリアスのアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』収録曲「Donna Lee」に感銘を受けてジャズに目覚め、この曲を作ったチャーリー・パーカーに興味を持ち、それがビバップに影響を受けた演奏スタイルにつながっていく。
14歳からライブ活動を始める。池田篤からアルトサクソフォーンを学んだ。中学卒業後アメリカに渡り、やがてニューヨークのレストランなどで演奏するようになる。2003年9月25日にアルバム『YANOSAORI』でデビュー。
2005年には、マイルス・デイヴィスとの活動で知られるドラマー、ジミー・コブと共演ライブを行い、ジミーから「日本のキャノンボール・アダレイ」と絶賛される。
次は、綾瀬歩美
◉資料
1988年生まれ 岐阜県出身
トロンボーンを演奏する父の影響で、幼少の頃から、ジャズ、ラテン、
フュージョンに親しむ。
3歳よりピアノを習い、中学でサックスへ転向。
高校から本格的にジャズを始め、椿田薫氏に師事。
その後甲陽音楽学院名古屋校にてさらに音楽について学ぶ。
この頃から岐阜、名古屋を中心にライブ活動を始める。
2010年ポニーキャオンより、1stアルバム「Struttin'」にてメジャーデビ
ューを果たす。
ジャズオリジナル、クールジャズ、自身のオリジナルなどを収録し、注目
を浴びる。
2011年2ndアルバム「DayBreak」を発表。
2012年ノルウェーでレコーディングした3rdアルバム「Rainbow Tales」を
発表。
北欧のミュージシャンとの融合で生まれた新鮮なサウンドが評価される。
次は、ユッコ・ミラー
◉資料
ユッコ・ミラー(12月25日[1] - )は日本のジャズ/フュージョンサックスプレーヤー、作曲家、編曲家。2015年11月までの旧名義は、大西 由希子(おおにし ゆきこ)。愛称はYUCCO、ゆっこ。ゼロクリエイト所属。
◉資料2
三重県伊勢市出身。皇學館高等学校の第40期生
3歳よりピアノを始め、高校で吹奏楽部に所属しサックスを始める。
パリ・ウィーン等、海外演奏旅行、CDへの参加、数々のコンテストにてグランプリ等受賞する。
エリック・マリエンサル、河田健に師事。
19歳でプロデビュー
2009年 WBA世界スーパーウェルター級ボクシングタイトルマッチのリング上で国歌「君が代」の独奏を務める
2012年 アトス・インターナショナルから全国発売された、大西由希子教則DVD「アドリブ・ サックス・パーフェクト・マスター」が、Amazonにてベストセラー入りする。
最後に・・・・
私の大好きな曲。lily was here =「リリーはここにいた」最高に、乗れる曲です。
日本人ではありませんが、日本人の演奏との比較もまた、楽しいです。^^
最後に、キャンディ・ダルファー。
◉資料
父ハンス・ダルファー(ダルファー)の影響で6歳よりソプラノサックスを吹き始める。地元のブラスバンドに参加する(ここでアルトサックスに転向する)も、基本的にはほとんど独学でサックスを学んだとされる。11歳には父のバンドに参加し、初のレコーディングも果たす。14歳でオリジナルバンド"Funky Stuff"を率いるようになると、メディアからも注目されるようになる。
マドンナやプリンスらのオランダ公演でのバックバンドミュージシャンとして注目を集めるようになり、プリンスのアルバムにも参加して評価を得るも、自身のリーダー作にこだわる姿勢を見せ、袂を分かつこととなる。1989年にオランダの映画「Lily Was Here」のサウンドトラック(プロデュースはユーリズミックスのデイヴ・スチュワート)に参加し、
彼女が起用された同名のタイトル曲がヨーロッパのヒット・チャートで1位を獲得、世界的に人気を得る。翌年ファーストアルバム"Saxuality"を発表。このアルバムは米・ビルボード誌のトップコンテンポラリージャズアルバムチャートで4位を記録、ミリオンセラーのヒットとなり、グラミー賞にノミネートされた。1993年発表の"Sax-A-Go-Go"にはメイシオ・パーカーらJ.B'sやタワー・オヴ・パワー、1995年発表の"Big Girl"にはデイヴィッド・サンボーンがゲストに呼ばれている(トップコンテンポラリージャズアルバムチャートで5位を記録)。1997年発表の"For The Love Of You"は、トップコンテンポラリージャズアルバムチャートで2位を記録し、250万枚を売り上げるヒット作となり、ワールドツアーで14カ国を回る。2001年には父と共作をはたし、"Dulfer & Dulfer"を発表。2003年にはプリンスの"Xpectation"、メイシオ・パーカーの"Made By Maceo"にもゲスト参加している。"Live In Amsterdam"(2001年発表)、"Live At Montreux 2002"(2005年発表)といったライヴアルバムも発表している。
2014年6月に結婚したことを公表
おまけ・・・・・
「駅」もサックスだとこうなります。
岩見沢市出身 jazzサックス女子 吉田ののこさん 応援歌
朝は、弱い。
しかしながら、虎次郎が来て、一緒に寝るようになってから、6時になると、トラアームになるので、
ニャーゴニャーゴうるさいのだ^^
しょうがないので、最近は、6時から、皿洗いに、餌やり、虎次郎の糞処理、菊の肛門洗い、介護父の朝の茶の準備、仏壇の花の水の取り替え、洗濯、掃除、キッチンの皿洗い、とやらざるをえない。
猛烈に、9時くらいから、眠気が襲ってくるので、それと戦いながら、美術書を見るのが習慣なので、いろいろ、コレクションルームで見ては、ムラムラくるのを待つ。漫画や枕草子とか、百人一首なんかを読んでは、モーツアルトを聴いたり、アナログ、英語はカーペンターズが発音が聞きやすいので。フランス語は、なんといっても、シルヴィ・ヴァルタン。枯葉のイブモンタン。イタリア語は、ジリオラ・チンクエッティとミルバ。なんかを歌詞を見ながら声を出して歌ってみる。笑。
どうせ、誰も聞いていないしこれでいいのだ。ぶふ。今日は、裸婦のクロッキーの整理をしてみたら、半年分だから、結構な印刷物になった。なんせ、プリンターより、インクの方が高いので、これまた偽ビールならぬ、偽インクを使用している。
本番の印刷の場合、たとえば同人誌などなど・・・これは、同じプリンターをあえて二台揃えてあるので、本物の正規インクにて、印刷。やはり仕上がりが違うなぁ。
虎次郎が、窓から、風を受けて、モーツアルトを聴いているような風にも見えてかわゆい。
そんな、時間はあっという間に、過ぎ去っていく。気がつくと、1時。
美味い泡を飲むために、散歩に出る。
昨日の素晴らしいコンサートのことを思い出しながら。・・・
昨日、友達のjazzのコンサートがあり、2時間、jazzの夜を「ノンノン」で、楽しむ。洒落たバーなので、よく、散歩の最中に、ヘエーー、かっちょいい(死語)なあ、とチラチラ、見ていたが、ここで、jazzのライブもやるのだと知った。
駅の近くの、NPO法人の炭鉱の喫茶でもjazzはやるけれど、ここも小さいけれど、食べながら、飲みながら、聞けるのが良い。
フリュートを中心に、(珍しい) ピアノ、ベース、ドラム。
「my favorite things」をフリュートで演奏し始めた時はびっくり。
アトホームな雰囲気で、楽しかった。
古典的なわかりやす曲のjazzで、女子が聞いても、楽しいと思う。
狭い店だけれども、30人はいただろう。二階もあって、そこにも、たむろできる。20人くらいは入れるのではなかろうか。
私は、ピアノが好きなので、ピアノ中心にソロを集中して聞いていたけれども、なかなか、良い。
今度、教えてもらいたいくらいだ。川越で、せっかくユーミン研究家の素晴らしいピアノの先生で出会えたのに、
三ヶ月のレッスンで、私は、北海道に転勤。残念無念。今は、独学しかないから、絵と違って、なかなか、上達しない。
絵もcomicも時間がかかるし。介護父の面倒も見なければいけないし。・・・・まあ、なんとかなるでしょう。
・・・・・・
ビールがおまけで付いている。プレートにチーズや、諸々ついて、1000円。
サプライズがあった。カフェのスタッフに可愛い見たことのあるお姉さんがいて、赤ワインを頼んだりしてて、岩見沢東高ということが、わかった。
たまたま、俺が、フリュートも良いんだけど、基本、アルトサックスなんかが好きで、あのぉ岩見沢出身のあの、吉田のの子さんなんかのファンなんだよ。今どこで、演奏しているのだろうかなあ、なんてそのスタッフというか、カフェの店員さんと、雑談していると。
「私が、吉田のの子」です、という返事。ぶったまげた。
そして、ミーハーの私は、即、握手をして、ありとあらゆる賛辞をぶちまけ、サインをもらい、さらに、CDの新盤が出ていたのを知っていたので、あるの?と聞くと、あるというので、どうせ買うなら、本人のサイン付、買う。やった!!!!
写真まで撮ってもらった。まさに、美女と野獣。^^ エグザイルを見に行っても、ツーショットで、写真なんか撮ってもらえないだろうから。これは、マイナーなjazzの世界だからこその、贅沢。
彼女のサックスは、我がブログでも、女子のサックスで、何回も、紹介していたけれども、本物のライブは聞いたことはない。(7月の8日のライブは行く)
きれいでおしゃれなjazzもいいし、かっこいいjazzもよし。
でも、彼女のなんか「ぶっちぎりの魂の暴走みたいなパフォーマンスjazz」を聞くと、おっ、70年代の早死にした、ドルフィーやら、コルトレーンやら、ジャニスやら、尾崎を連想できて、ムラムラモチベーションが上がる、何か自分もしたくなる。^^
フリー・ジャズ。絵で言えば、アブストラクト。画家で言えば、だれかなあ、だれにも似ていないからいいのだが、オーネットのフリージャズ➕アルバート・アイラー
➕ファラオ・サンダース、三人足して、割り算出来ず。^^
カンジンスキーから、クレーの方向に変容していけば、世界的に化ける逸材だと思う。
基本、オーネットの豆腐屋のラッパみたいな音が私は個人的に好きなので、彼女のセンスは、大好きなのだった。
新作の、「ロータス」=死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、これが「一蓮托生」という言葉の語源。無償の愛。花言葉も好きだ。蓮は神秘的だ。
五年前に初めて彼女のjazz曲を聴いて、岩見沢出身というので、応援したくなるではないか。バイトをやりつつ、世界をめぐり、自分の好きな道を追求する。・・・・・・・・・・・・・・私は、57歳からやり始めたから、そのサラリーマン時代にやれなかった好きなことを今頃追求したいと思っているのだが、彼女見たいな、猪突猛進的な生き方もいいと思う。
アナログ漫画のデジタル化 ただの吹き出しの中をデジタルするだけ ^^
アダム・ランバート Black Or White(アメリカン・アイドル シーズン8 Top 13
◉資料
アダム・ミッチェル・ランバート(Adam Mitchel Lambert、1982年1月29日 - )は、アメリカ合衆国の歌手、舞台俳優。インディアナ州インディアナポリス生まれ。オーディション番組『アメリカン・アイドル』のシーズン8準優勝をきっかけにメジャーデビュー。
1982年1月29日、インディアナ州インディアナポリスに生まれる。
サンディエゴ近郊で育つ。
10歳の頃から舞台俳優として活動。サンディエゴで『きみはいい人 チャーリーブラウン』に出演した[1]。高校卒業までに『ハロー・ドーリー!』、『キャメロット』、『ミュージック・マン』、『グリース』といったミュージカルにも出演。
高校卒業後、大学に進学するが数週間で中退。
19歳でクルーズ客船のシンガーとしての仕事を得る。
21歳でミュージカル『ヘアー』のツアーキャストとして6ヶ月間ヨーロッパを回る。
2004年、ミュージカル『ブリガドーン』、『110 in the Shade』、ヴァル・キルマー出演の『The Ten Commandments: The Musical』に出演[2]。
2005年から2008年にかけてミュージカル『ウィケッド』に出演[2]。
並行してロックバンドThe Citizen Vainのフロントマンとして活動する。
2009年、『アメリカン・アイドル シーズン8』に出場し準優勝。番組史上最高の賞賛と注目を浴びる。サンフランシスコでオーディションを受け、『ロック・ウィズ・ユー』、『ボヘミアン・ラプソディ』を歌った。マイケル・ジャクソンウィークでは、『Black or White』を歌い、審査員全員から賞賛を受け、特に審査員のポーラ・アブドゥルは、彼の決勝進出を予言した。2009年5月20日のフィナーレではキッスと共に Beth、Detroit Rock City、Rock and Roll all Night のメドレーを披露した。また、結果発表の前に、クイーンのオリジナルギタリストであるブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの演奏で、クリス・アレンと共に『伝説のチャンピオン』を歌った。決勝戦の後、クイーンは、ランバートを新しいフロントマンとして迎え入れようと声をかけている。その件に関してその気があるのかというAP通信の質問に対し「それは難しい質問だね。だって、正直、クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ。でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたい」と答えている。[要出典]『アメリカン・アイドル』出演中に流出した写真から同性愛者であるという噂が持ち上がったが、番組終了後にランバート本人がローリング・ストーン誌において同性愛者であることをカミングアウトした。
2009年11月22日 アメリカン・ミュージック・アワードに出演。男性ダンサーの頭を自分の股間に近づけたり、男性ベーシストとディープキスをするという過激なパフォーマンスをしたため、生中継したテレビ局に多数の抗議が寄せられた。これについて、ローリング・ストーン誌では「女性パフォーマーが股間を頭に押しつけたりすることは、何年もやられてきた。しかし、男性がやるとみんなパニックに陥ってしまう。僕らは2009年を生きているんだ。(この時代は)少しくらいの危険を冒しても勇気をもって人々の目を開かせる時であって、もしそれに反抗する人がいたとしたら、僕はおそらくその人たちのためのものではないのだろう。僕の目標は人をいらいらさせることではなく、表現の自由と芸術の自由を促進させることなんだ」と語った[3]。
2009年11月23日にデビューアルバム『For Your Entertainment』をリリース。1stシングル Time for Miracles は映画『2012』のサントラに使用されている。
2010年3月10日に日本デビューとして、スペシャルエディション(DVD付き)のアルバム『For Your Entertainment』をリリース。フォー・ユア・エンターテイメントのプロモーションで来日した際、「エルビス・プレスリーの再来」「神の声域を持つ世紀のヴォーカリスト」「過激な貴公子」等と紹介された。
2010年6月~12月 『Glam Nation Tour』(グラムネーションツアー)北アメリカ、カナダ、日本を含むアジア、ヨーロッパ、オーストラリア等を回るワールドツアー(113公演)。
2010年 グラミー賞「最優秀男性ポップボーカル」ノミネート。(ファーストアルバム収録曲「Whataya Want From Me」)
2011年11月6日 北アイルランド・ベルファストで開催されたMTV Europe Music Awardsにおいてクイーンと共演。
2012年3月15日 セカンドアルバム『TRESPASSING』をリリース。全米ビルボード総合アルバムチャート1位を獲得し、ゲイである事をカミングアウトしているアーティストとして初めての快挙を成し遂げた。
2012年6月~7月 クイーン+アダム・ランバートのボーカリストとしてヨーロッパツアー(6公演)
・6/30 キエフ(ウクライナ)、7/3 モスクワ(ロシア)、7/7 ヴロツワフ(ポーランド)、7/11,12,14 ロンドン(イギリス)
2013年2月~3月『We Are Glamily Tour』(ウイアーグラミリーツアー)日本を含むアジア、ヨーロッパ各地でのコンサートツアー
2013年9月 アヴィーチー(Avicii)のデビューアルバム「True」にナイル・ロジャースと共に1トラック「Lay Me Down」でコラボ
2013年9月「Queen + Adam Lambert」ラスベガスで開催された ”iHeart Radio music festival” に出演。
2013年~2014年 米ミュージカルドラマ「Glee/グリー (シーズン5)」にエリオット・ギルバート(スターチャイルド)役でエピソード4,7,9,10,14にゲスト出演
2014年6月19日~7月28日「Queen + Adam Lambert」北米・カナダ、サマーアリーナツアー(24公演)
2014年8月14日「Queen + Adam Lambert」韓国スーパーソニック2014
2014年8月16日、17日「Queen + Adam Lambert」日本サマーソニック2014(ヘッドライナー)
2014年8月22日~9月4日「Queen + Adam Lambert」オーストラリア・ニュージーランドツアー(8公演)
2015年1月13日~2月27日「Queen + Adam Lambert」イギリス・ヨーロッパツアー(26公演)
2015年9月16日~9月30日「Queen + Adam Lambert」南米ツアー(6公演)
2016年1月3日~5月6日『The Original High Tour』(ザ・オリジナルハイツアー) アジア・オセアニア・北米・ヨーロッパツアー
2016年5月20日~6月25日「Queen + Adam Lambert」ヨーロッパツアー
2016年9月12日~9月30日「Queen + Adam Lambert」アジアツアー(9公演)
エーメン - オーティス・レディング
オーティス・レディングの「エーメン」なんかは、高校生の頃に、大好きで、よく聞きました。いまの若い人は、名前くらいは、知っているのかな? リズム&ブルース=死語かもしれませんね。いまや、ラップの時代ですから。でも、もともと、ここからブラックミュージックはスタートしています。^^
深作欣二「おもちゃ」見ました。・・・・溝口の「祇園の姉妹」のオマージュとして
深作監督はいろいろな映画を作っているけれど、この「おもちゃ」はあまり、ヒットしなかった。クリップさへ、ユーチューブにない。ただ、私は、彼と新藤監督が好きなので、記録しておきたい。
自分のDVDで何回も見た。
日本人の古来の衣装に対する考え方・・・非常に、勉強にもなる。
大ヒットした「バトルロワイアル」。
この映画の前作。
それが、ヒットはしないけれども、日本人なら一度は見てもらいたい「おもちゃ」である。
今の女性でなくとも、他人の「おもちゃ」になることを、良しと、する人はいないだろうが、ここでいう「おもちゃ」というのは、当時は合法だった赤線で、働く女たちの、仕事へのプライドに満ちた、言葉なのだった。
着物屋で働いていた私でなくとも、今、こんな着付けをして、髪をゆい、かんざしをさして、手間暇かけて、自分を最高の美のイメージに高めていく・・・・
好きな男はいるが。
貧乏な家族を助けるために、その心を断ち切って、水揚げされるシーンは、圧倒的に美しい。
(道徳的に良いか悪いかは、別。作品は、まず、作家が信じる美を優先する。)
◉宮本真希
資料
宮本 真希(みやもと まき、1977年12月12日 - )は日本の女優。元宝塚歌劇団星組の娘役。
愛媛県八幡浜市出身。済美高等学校1年修了。所属事務所は、A-Team。
身長162cm、足のサイズ23.5cm。
実家は建設会社を営んでいたが、宮本が19歳の時に、社長だった父親が他界[1]。
1994年、高1修了で宝塚音楽学校に入学。第82期生。
1996年、宝塚歌劇団入団。入団時の成績は10番。斐貴きら(ひだか - )という芸名で月組公演「CAN-CAN」で初舞台を踏んだ後、星組に配属。
同期生には紺野まひる(元雪組トップ娘役)、蘭寿とむ(元花組トップスター)、壮一帆(元雪組トップスター)らがいる。
1996年、T.a.p.(Takarazuka Angel Project)と呼ばれる同期生によるユニットに選抜され、TVCMに出演するなどしたが、わずか2年で退団した(1998年に発足した宙組の発足メンバーにも名を連ねていたが、退団したため宙組異動は幻となった)。
退団後はライジングプロダクション(現・ヴィジョンファクトリー)所属となった。
1999年、映画『おもちゃ』(監督:深作欣二)で主演の祇園芸者(舞妓)の役に抜擢され、ヌードシーンも含め、体当たりの演技を披露。同作品で、第23回日本アカデミー賞の新人俳優賞、第11回東京国際映画祭の最優秀女優賞を受賞した。
2000年、ヴィジョンファクトリー傘下のぱれっとに移籍し、映画だけでなくテレビドラマにも出演の範囲を広げている。
趣味・特技は絵画制作。
愛媛県伊予観光大使(通称:いよかん大使)に任命されている。
2014年11月、A-Teamに移籍。
ふと。
新藤兼人つながりか、と思いきや、まったく新藤つながりはありませんでしたが、
火宅の人をおもいだしました。
傑作です。泣けます。男に生まれて良かったと思える映画でした。
誤解されるのですが、この映画は女性達に対するリスペクトに満ちあふれているのですが・・・
そうは見ない人がふえています。
ダンナの浮気は絶対に許さないという、女性が最近は多いですね。
(反面。妻達の反乱とも言うべき、妻の不倫が週刊誌の話題になったりもします。)
私の人生観は、「人生は冒険だ」と思っていますから、
アーサー・ミラーの「一歩家を出れば、それはすでに旅だ」という言葉を信じて、
かわりばえのしない通勤生活を、駅までの10分くらいの距離であろうと、あっちから行ってみたり、こっちから行ってみたり、早めに会社にでかけて、途中の喫茶店をいろいろ巡ってみたり、確かに、モーレツサラリーマンでしたが、自分なりの、「プチ・冒険」は楽しめました。
そんな時代。
読む本は、安吾や、檀一雄みたいな、無頼派の本ばかり。
酒や薬や女に溺れながらも、人生の夢をおいかけていく、明治・
大正時代そして、昭和初期の男達のいきざまにあこがれていました。
「火宅の人」 傑作中の傑作です。
何回も書きますが、「芸術とは、歴史に埋もれたる人間を救い出す術をあみだす」ことですから、自分の「普通の生活」をこのような映画に重ね合わせる必要はありません。
感動すればいいんです。
それに、人生は、「一寸先は闇」ですから。
人生にレールなどひいても、そのとうりに行く筈がありません。
東北大震災のような大きな震災でなくとも、ひとりひとりの普通の人たちにさへ、
さまざまなる苦難は襲いかかってきます。
檀一雄氏のように、障害がある子どもを授かったり、大切な家族を事故で失ったり、
ガンや心臓病のような病もありますし、転勤やら、会社の仲間との人間関係のトラヴル、
上司とのストレス、近所付き合いの大変さ、もう、数えたらキリがありません。
人生は、「一寸先は闇」ですから。
この歌、いつも聞いています。
そう考えると、逆にホッとします。安心できます。
それが、人生の土台です。
そこから、どう自分なりに、たくましく生きて行くかです。
できれば、たくましく、これに、美しくをプラスした生き方ができれば最高です。
原田美枝子。最高です。
資料
◉『おもちゃ』は、1999年に公開された日本映画。監督は深作欣二。溝口健二監督作品『祇園の姉妹』のオマージュとして新藤兼人(新藤は溝口に師事している)が執筆した小説を新藤自身が脚本化。
宮本真希のデビュー作である。主人公の舞妓名「おもちゃ」は『祇園の姉妹』の主人公の名前でもある。
あらすじ
売春防止法施行前後の昭和33年、京都の花街。貧しい職人の家に生まれた時子は、置屋藤乃家で仕込みおちょぼ(下働きの舞妓見習)として働いていた。
あるとき女将里江のパトロンである吉川が、息子が藤乃家の芸妓である照蝶にたぶらかされたと怒鳴り込んでくる。呉服屋の婿養子である吉川が金のかかる里江と別れるために息子と謀った策略だった。照蝶に手を上げる吉川に里江は別れを決意するが、時子を舞妓としてひとり立ちさせるために金策に走らなければならなかった。里江が新たなパトロンに一夜身を任せ、時子がいよいよ舞妓「おもちゃ」として水揚げされることになった。
グレース・ヴァンダーウォール 「美しき奇跡」
◉資料
グレース・ヴァンダーウォール(Grace VanderWaal、2004年1月15日 - )は、アメリカの女性シンガーソングライターでウクレレ奏者。2016年、12歳で、NBCテレビのオーディション番組「アメリカズ・ゴット・タレント」第11シーズンの優勝を飾った[1]。ニューヨーク州サファーン出身。
グレースはカンザス州カンザス市で生まれる。その後、家族でニューヨーク州サファーンへ引っ越す。姉のオリビアとは親友という間柄。兄も1人いる。
グレースは3歳のころから、自分で歌を作って歌っていた。11歳の誕生日に父からウクレレをプレゼントされ、ウクレレ演奏を始める。ウクレレはYoutubeを見て学んだ。本格的に作詞作曲を始めたのは、この2、3ヶ月後という。
自宅から30分程離れたコーヒーショップ等で歌っていたことはあったが、アメリカズ・ゴット・タレントに出演するまで、学校のほとんどの友達はグレースが歌うことを知らなかった。
アメリカズ・ゴット・タレント
2016年6月7日、「アメリカズ・ゴット・タレント」第11シーズンの予選に出演したグレースは、自身のオリジナル曲「I don't know my name」を自身のウクレレ伴奏で歌い、ゴールデンブザーを獲得する。ゴールデンブザーは、審査者が1シーズンで1度きりしか使えないボタンで、一気に準々決勝への進出が決定する。ゴールデンブザーを押したホーウィー・マンデルは、グレースが演奏前に「奇跡は起きるもの」と言ったのになぞらえ「君こそが生ける美しき歩く奇跡だ!」と絶賛。また同じく審査員のサイモン・コーウェルも「君は次のテイラー・スウィフトになる」「100%スター、彼女は特別だ」と称えた[2]。
2016年8月23日の準々決勝では、オリジナル曲「Beautiful Thing」と題した、自身の姉についての歌を歌う。続く8月30日の準決勝では「Light the Sky」、9月13日の決勝で「Clay」を披露し全て審査員の絶賛を受け、視聴者の投票により優勝を飾った。
フィナーレでは予選で歌った「I don't know my name」を披露。フィナーレにゲスト出演したロックの歌姫スティーヴィー・ニックスは「グレースはトップになる」と称えた[3]。
アメリカズ・ゴット・タレント第1シーズンにて、11歳の若さで優勝したビアンカ・ライアンに次ぐ2人目の女性勝者であり、年齢的にもビアンカ・ライアンに次ぐ12歳という若さでの優勝である[2]。
優勝賞金100万ドルの一部は自分と姉オリビアのためのツリーハウスを作るのに使いたいという。噂を聞きつけたツリーハウスマスターからの協力の声がかかっている。[4]
畠田理恵 KISSよりつねって 羽生夫人・・・ 藤井28連勝
オーディション「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に応募しMomoco賞を受賞した彼女は、羽生さんの奥様。
よく藤井さんに、義務教育だけは、受けたらとかいう人がいたり、プロは忙しすぎて、学業が出来ないとかいう人がいるが、アホである。個人的な意見ですが・・・
羽生さんは、チェスでも日本1になり、外国人とチェスをやるがたいために、英語を独学で学んだ人ですから、集中力がヒントになります。淀川長治さんも、映画で英語をマスターしましたから、将棋の歴史から歴史を学んだり、漢字に興味を持ったり、その他、独学のスタイルにむいているのが、将棋をする人です。だから、コンセントレーションが強すぎて、車の運転ができない人がすくないといいますから。勝負の世界。いいですね。
とにかく、天才は、今は、将棋にコンセントレートしてもらいたい。
いずれ、井戸は二つあった方が、脳髄のためには良し、ということがわかるんだから、それから、独学すれば良いだけ。
今の、日本の大学なんかに行って、くだらない授業受けて、平均的な友人と飲んで、・・・・・変な彼女を作って・・・・・やめたほうが良いですよ。
自分の宇宙を作り上げていくこと。そこにconcentrateする。個人的な意見です。
(藤井さんからも目が離せません。ニュースより・・・)
史上最年少で将棋のプロ棋士となり、公式戦で一度も負けていない中学3年生の藤井聡太四段が、21日大阪で行われた対局に勝ち、連勝記録を「28」に伸ばしました。これで、30年ぶりとなる歴代最多の連勝記録に並びました。
藤井聡太四段は、去年10月に史上最年少の14歳2か月でプロ棋士となったあと公式戦で一度も負けることなく勝ち続け、今月17日の対局で連勝記録を歴代2位の「27」まで伸ばしています。藤井四段は21日、大阪の関西将棋会館で王将戦の予選に臨み、午前10時から澤田真吾六段と対局しました。
対局は互いに攻め合う展開になり、終盤、藤井四段の攻めがつながって次第に優勢になり、午後4時47分、99手までで澤田六段が投了しました。これで藤井四段の連勝記録は「28」になり、30年前の昭和62年に神谷広志八段が達成した最多連勝記録に並びました。
対局のあと藤井四段は「先に優勢になられる展開になってしまったが、なんとかしのいで反撃の形になったのはよかった」と対局を振り返りました。また、28連勝という記録については「本当に思ってみなかったことなので、非常に幸運というかツキがあったと思います」と話していました。
藤井四段は今月26日に次の対局に臨み、最多記録の更新に挑むことになります。
●資料
大阪府堺市に生まれて、大阪府和泉市に育ち、地元の和泉市立伯太小学校に通う。中学は箕面市立第二中学校卒業。
その後、何度かの転居を経て大阪市福島区に居住。福島区では、祖父がラーメン屋「たつみや」(現在はちゃんこ屋「たつみ」として兄夫婦が引継ぐ)を経営、週末に手伝いをしていた[1]。近所で美人看板娘として有名だった。芸能界入りした後は、店内にさりげなくポスターが貼られていた。
1985年10月26日、オーディション「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に応募しMomoco賞を受賞。
1986年4月29日、大阪福島女子高等学校在学中に、学研発行の月刊雑誌「Momoco」主催のイベント「'86 MOMOCO PARTY」において開催された「第2回ミスモモコクラブ」オーディションで「ミスMomoco」グランプリを受賞(桃組出席番号1404番)。ビッグアップルにスカウトされ、芸能界入りのため同校を中退して上京。「Momoco」グラビアや、TBSテレビの「モモコクラブ」にレギュラー出演する。(その後、家族も上京)
1987年3月3日、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のリプリーズレーベルより「ここだけの話 〜オフレコ〜」でアイドル歌手としてもデビュー。当時未成年ながらも大胆な歌詞を歌いこなし話題になった。
人形のような容姿の正統派美少女キャラクターが売りだったが(文化放送「青春キャンパス」に出演した際、谷村新司に「ガラスケースに入れて飾って置きたくなるような子だ」と評された)、自身のサイン会イベントで自ら司会を務めてマニアックなファンへの対応をこなしてみせる等の才能ものぞかせた。バーニングプロダクション一押しの新人アイドル歌手で、デビュー当時は同じレコード会社の同期でデビューした森高千里よりもプロモーション等に力を入れてもらっていた。同年の賞レースにも多く参加し、第29回日本レコード大賞では、その年にデビューした歌手のTOP5にも選ばれるなど好調な1年目だった。
1988年、1年目の中森明菜路線から菊池桃子の路線へと変更したシングル「Kissよりつねって」を発売。また、同年、秋に発売されたシングル「ソノ気にさせて」は当初同じ系列事務所、渡辺美奈代がシングルとして発売する予定の曲だった。その後歌手中心の活動から女優メインの活動へ転向してゆく。
1990 - 91年に放送されたNHKの連続テレビ小説「京、ふたり」で、ダブルヒロイン(主人公)の一人(もう一人は山本陽子)として漬物屋の若女将役を務める。また、この時期デビュー当時から所属していた事務所ビッグアップルを辞め、アップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)に移籍し、更に1992年にレコード会社をポリスターに移籍し、“Rie”としてシングル「ミ・ディオス 〜RAILA〜」で再活動した。また、数多くのドラマに出演した。
1996年2月19日、東京駅八重洲中央口で46歳のホームレスに襲われた。腰のあたりを蹴られたため、救急車で聖路加国際病院に運ばれ、そのまま入院した。
1996年3月28日、将棋棋士の羽生善治と結婚し、芸能活動を引退。1997年7月に第一子となる女児を、1999年11月には第二子となる女児を出産。
1998年8月、目黒区自由が丘に完全無農薬のおにぎり店「リトルキッチン」を開いたが、手伝っていた実母がC型肝炎を発症し、看病に専念するため、1999年3月に閉店した。当時はC型肝炎に対する偏見も根強く、客の心理を考え、閉店の理由を「経営不振のため」とした(実際は利益も出ていた[2])。
1997年にはNHKの連続テレビ小説『ふたりっ子』に夫婦揃って特別ゲスト出演した。
●資料
羽生さん
1996年2月14日、将棋界で初の7タイトル独占を達成。
全7タイトルのうち竜王を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格を保持(いわゆる「永世六冠」)。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、7つの永世称号の保持は史上初[注 1]。
通算優勝回数152回、公式戦優勝回数141回、タイトル獲得97期、タイトル戦登場129回、同一タイトル戦25回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)は歴代単独1位、一般棋戦優勝回数44回は大山康晴と並んで歴代1位タイの記録である。また、非タイトル戦優勝回数55回、非公式戦優勝回数11回、最優秀棋士賞21回、獲得賞金・対局料ランキング首位22回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。
羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。
プロデビューまで
埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ[1]。
小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わった[1][注 2]。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)[1]。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった[1]。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた[1]。
道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった[1]。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり[1]、いわゆるアマ強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった[1]。
1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である‘赤ヘル’を被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[2][1]。
そして、1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝した。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている[1]。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった[3]。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過[1]。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する[1]。
5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)[注 3]に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた[注 4][1]。しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司新八段だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた[1]。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと述べている[要出典]。
同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[注 5]により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる[4]。
blackコーヒーと、古本と、jazz 植草甚一 私のjazzと古本先生です。近づきたいです。
先日。
岩見沢市の出身の吉田ののこさんと、お話できて、
彼女のライブにも今度行くので、
ふと、いろいろ考えていました。彼女の音は、コルトレーンやら、ファラオやら、アリスやら、昔から聞いていた好みの音に近いものがあります。
これからまだまだ、変容するでしょうが。
私のアリスの一番好きな曲。
・・・・
大学時代。
昼飯をケチっては、その130円で、横浜まで、白楽から歩いてjazzをよく聞きに行ったものです。
植草甚一は、クラシックからモダンjazzまで、なんでも聞いていたサブカルの達人で、ひょっとしたら会えるかもしれないという好奇心もあり、『ダウンビート」「千草」「リンデン」などには、しょっちゅう、入り浸りでした。
視線恐怖症という変な自律神経の病気で、ほぼ、人と会うのを避けては、jazzと古本とコーヒーと缶ピースの日々でした。
彼の本の中に、こんな素敵な文章があり、いつも、今日はどう過ごそうかと思っているような時には、思い出す文章です。
「街の中を歩きながら、ああ、今日は古本をだいぶ買ったな、と思うと、うちへ帰る前にコーヒーが飲みたくなるものだ。歩きすぎて、少し疲れているし、美味しいコーヒーを出す喫茶店に入って、買った本をパラパラとめくるのが、もう長い間、僕の癖になってしまった。・・・・・・喫茶はjazz喫茶では、最近はモダンjazzが好まれているようで、例えば、オーネット・コールマンの、「lonly woman」というのがあるけれども、これは、「寂しい女」とか「ひとりぼっちの女」とかと訳して聞いている方がピンとくる。
・・・・・・・この演奏を聴いていると、ジャンヌ・モローみたいな感じの女が、灰色の部屋の隅にあるベッドの上で、何かじっと考え込んでいるイメージが浮かび上がってくる・・・」という文章。
こういう文章を読むと、ムラムラ、古本屋に飛び込んでは、安い100円本を買っては、jazz喫茶に飛び込んでは、彼の真似をするのが、楽しみでもありました。ジャンヌ・モローというのも、私の好みとよく合っていて、アテネ・フランセで、見た彼女の「突然、炎の如く」
なんかを思い出しては、コーヒーをすすり、そして、「lonly woman」をリクエストしたものです。
MJQの「lonly woman」もなかなか好きだったし、確か、私のボケた頭が間違いがなければ、高橋たかこ女子にも、「ロンリー・ウーマン」という作品があったような。
このような愛読書は、大切にしています。
なぜなら、空が曇って、元気がでないような時に、読むと、当時の自分の元気=初心
を再度もらえるからです。(元気をもらえるのに、何も、本でなくても良いのですが、それは、孫の顔でも、美しい山並みでも、美味しい食事でも良いのですが、体に良き食物が必須なように、頭には良き本・映画・漫画・絵画・音楽が必須なのではないかと、私、変人28号は、そういう青春の卵をいつも尻にくっつけている人間なのですので、しょうがありません。今から、人は変わらないでしょうから。笑。)
ところで、彼は、現代音楽にも、すごい造詣がありました。
それまた、影響を受けました。
まあ、今や、jazzと現代音楽の差は、どんどん狭まって入ると思いますが。
◉資料
20世紀以降のクラシック音楽は、時代的に見て大まかに近代音楽と現代音楽に分けられる。近代音楽と現代音楽の境界をどこに設けるか、統一的な見解はない。場合によっては近代音楽と現代音楽の区分を設けず20世紀初頭からのクラシック音楽の流れを現代音楽ととらえる考え方もある。しかし一般的には第二次世界大戦をもって近代音楽との境界とし、戦後を現代音楽として取り扱うことが多い。
ただし、戦前でも新ウィーン楽派、バルトーク、ヴァレーズ、アイヴズなど一部の先鋭的な作曲家や潮流は現代音楽に含む意見もある。
さらに、新ウィーン楽派の無調以降を現代音楽とするがヒンデミットやオネゲルらの後発音楽は近代とみなす、または逆にブーレーズは、ドビュッシ-の「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽は始まったとしている。
また、第二次世界大戦後に傑作を書いた作曲家でも、リヒャルト・シュトラウス(「四つの最後の歌」の作曲が1948年)のように、全く現代音楽とみなされることのない場合もある。
本項では、特に記述すべき事項のみ戦前も扱うが基本的には戦後からの記述とし、19世紀末あるいは20世紀初頭から1945年までの事項については近代音楽の項に譲ることとする。
本項で取り扱う第二次世界大戦後の音楽は、一般に1960年代末ごろまでが「前衛の時代」とされる。
この時代は、戦前においては最も前衛的な語法とされていた十二音音楽が多くの作曲家によって取り上げられるようになり、またその十二音音楽の理論をさらに発展させたトータル・セリエリズム(セリ・アンテグラル)、電子的な発音技術を取り入れた電子音楽や録音技術によるミュジーク・コンクレート、サイコロやくじなどランダムな現象を取り入れ、あらかじめ決定された意思としての音楽を否定した偶然性の音楽、音域の密集したたくさんの音を塊のように同時に鳴らすトーン・クラスター、わずかな音形を執拗に繰り返しながら徐々にその形を変えるミニマル・ミュージック、楽譜でも図形譜や言語による楽譜など、それまでの音楽史の諸様式の範疇を大きく塗り替えるさまざまな音楽が登場した。
また、「楽譜そのものを芸術としてみる」概念もダダの時代に開発された。
エルヴィン・シュルホフの「五つのピトレスケ」の第三曲は、全く意味をなさない顔文字と休符だけで全曲が構成された最初の音楽作品である。
同時期にアルフォンス・アレーの「耳の不自由なある偉人の葬儀のために作曲された葬送行進曲」という空白の小節のみで書かれた作品もある。
ジョン・ケージはこれらの作品を知らなかったにもかかわらず、後年独力で無音の「4分33秒」を書き上げることになった。
ディーター・シュネーベルの「モノ」は本を見て音楽を感じる本・楽譜であって演奏するものではない。
最近ではデスワルツのように、前衛の時代の図形譜のパロディがインターネット上で話題になることもあった。
1970年代(一説には1968年)以降のいわゆる「前衛の停滞期」以降は、調性感および音楽が喚起させる感情の復権を目指した新ロマン主義や新しい単純性など、過去の音楽への回帰をめざすマニエリスムと呼ばれる風潮が強まった。
しかしさらにそれへの反動として西ヨーロッパを中心に、聴き手により複雑な事象の認識を要求させる新しい複雑性やポスト構造主義、音波を科学的に分析して音楽に応用するスペクトル楽派など、エクスペリメンタリズムの音楽と呼ばれる前衛的な作曲傾向も見られる。
このように様式は様々であるが、それまでのクラシック音楽の常識であった調性(協和音)的な音響や規則的なリズムなど、一般に認知されている音楽言語から大きく逸脱したものが多い(ただしマニエリスムの音楽はその逸脱からの帰還を目指している)。
そのため一般的なイメージとして「聞きにくい」、「わけがわからない」などネガティブなものが多く、好んでこれらの音楽を聴く層はある程度限られる。しかし、芸術や人文科学の進歩としての活動、文化教育的な活動として、周辺芸術や人文科学関係(哲学など)にかかわる芸術家、学者、また愛好家たちを中心に、新たな音楽を求める活動を支持する層は存在する。演奏家や演奏団体も、ハンス・ロスバウトやパウル・ザッハーのように自分たちの演奏表現として新たな音楽の発信にかかわりたいという考えから進んで現代音楽を取り上げる奏者もいる。また各国政府の文化関係官庁や、芸術を支援する財団、あるいは公共放送局などからの保護と育成も受ける作曲家[誰?]もいる。
作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと進歩に対して自らの新しいメッセージを付加すべく新たな音楽を開拓し発信していくことで、それらの文化的あるいは経済的な支援や聴衆の期待に応えている。作曲を通しての知性への問題提起という行為によってそれが果たされると考えている者[誰?]が多い。
また歴史的に見ればそうであるように、現代音楽も同時代の他の芸術の分野とも無縁ではなく、並行しながら動いていることも多い。近代音楽が印象派絵画に触発されたように、ジョン・ケージはロバート・ラウシェンバーグをはじめネオダダ、フルクサスの芸術家など多くの現代美術家に影響を与えた。フルクサスに所属した芸術家は音楽家や美術家、詩人など多数のジャンルにまたがり、たとえばビデオ・アートのナムジュン・パイクも当初は現代音楽家であった。ミニマル・ミュージックやミニマル・アートなど、ミニマリズムも音楽と美術で同時期に起こっている。1970年代以降のサウンド・アートやメディアアートなどでも、両者の共同作業が行われることもある。
神田 神保町の植草甚一氏の通った喫茶「サボール」。前の中華料理店。
私がフランス語に興味を持ったのは、澁澤龍彦氏が、フランス語学部だったからで、たまたま、以前の会社の社長もまた、東京外国語大学のフランス語学部だったせいか、よくフランス映画の話になった。・・・・・
彼女の映画は、ほぼ、見た。
と言っても、名画座は今はないし、DVDもないので、あちこちに、手を伸ばして、探しまくって、見つける楽しみがあったのであります。
・・・・・・・・・・・・そして。
なつかしき、植草甚一さん。
この題名から発せられるオーラ。
私の時代は、誰しもそうだとは思うが、中学生頃までは、まだまだ、フランスの映画や、イタリア映画、ヨーロッピアンの文化がたくさん、ラジオから流れ、映画もそれらの映画が多く、
学校帰りに、そのボスターを見ては、まだ見ることのできない年齢だけに、ドキドキするような
ときめきを感じたものだった。
中学から戻り、親が仕事から帰宅するまでの間に、テレビで、当時、洋画を中継していたので、
「穴」「わたしは夜が憎い」
「チャップリン」「カサブランカ」などだったであろうか。
夢中で見たものだった。
そして、なぜか、母親が帰ってくると、不思議と、慌てて、悪いことをしているかのようにテレビを消した。
たしかに、洋画を見ることは親はあまり良い顔はしなかったような気もする。
高校生になり、映画も自由に見ることができ、ロックやjazzやらのカルチャーがどっと、仲間の間で広まる。
今のゲームの話と同じで、当時は、流行のそれらのアメリカの文化を聞かねば皆の話についていけなかったのである。
自律神経、視線恐怖にやられていた私は高校時代は、自閉の学校生活だったせいか、音楽ばかり聞いていて、大学に入ってからステレオのない部屋で、植草甚一さんなどの本にはまっていった。
当時は、横浜に植草さんがよく現れると聞いていたので、「ちぐさ」「りんでん」「ダウンビート」などにさかんに行ったものだった。
今からふりかえると、この当時はもうアメリカアメリカアメリカ。
フランスの、イタリアの、ドイツの、伝統と歴史のパイにはさみこまれた重厚な料理というよりは、まさに、インスタント的な、破壊的な、瞬間的な、・・・感性のみの、文化ではあったが、
当時の若者には大受けしたのだった。
植草さんは、三日間連続徹夜でアメリカの小説を読みふけって自律神経をおかしくするような、大の本好き。
しかも、変わっているのは、ベストセラーや古典よりも、アメリカの新人作家のみを漁っては、珍本を探して、紹介するのが非常に上手だった。
彼の良いところは、若者と自分の間に線をまったくひかないところ。
いつも派手なTシャツを着ては、たぶん、今でも生きていれば、渋谷にしやがんでいる女の子や男の子たちと、ファッショングッヅについて楽しくおしゃべりをするようなこともしたのではないか。
丸谷才一氏との対談でも、その驚くべき博学と、雑学、独特の美意識には感銘した記憶がある。
私はミステリーをあまり読まないので、ほとんど彼の洋書や、古本の買い方を、学んだ。
今でも、最初に飛び込んだ古本屋で、一冊も買わないとその日一日が不漁、という言葉は私も信じていて、必ず一冊は買うようにしている。
30代の頃にも、神田の神保町で、洋書を見て回った日々。
懐かしい。
この写真はサラリーマン退職後に、50代の時の神田で古本を買っていた頃のもの。・・・
今でも、彼の愛した喫茶店があって、私も東京に出るときには必ず寄るところだ。
喫茶「さぼーる」。同じ店がふたつある。増築したのだと思う。
ここのスパゲッティも彼はよく食したと聞いていたが、あまり美味しくないので、というよりも、自分でつくったスパゲッティが一番だと思っているせいか、神田に行くときには、この「サボール」の前にあるラーメン屋に入る。
値段と味のバランスは良いと思う。
オリジナルの大きさの写真です。
The Mops - Asamade Matenai
阿久悠のデヴュー作は、スパイダーズの「ふりふり」のB面の「モンキーダンス」らしいが、実際のそれは、モップスの「朝まで待てない」らしい。
●資料
阿久 悠(あく ゆう(AKU YUU)、1937年2月7日 - 2007年8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)[1]。淡路島(兵庫県津名郡鮎原村、現:洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。
阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する[2])。長男は作曲家の深田太郎で、ゲーム音楽や声優に楽曲提供している。 両親とも宮崎県児湯郡川南町出身[3]。
幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。洲本市立都志小学校卒業[4]、五色町立都志中学校、一宮町立江山中学校、五色町立五色丘中学校卒業[5]、兵庫県立洲本高等学校卒業(同級生に京都大学教授の木曾好能、料理研究家の為後喜光等がいる[6])、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に故郷の宮崎に戻ったという[3]。
1959年(昭和34年)に広告代理店・宣弘社へ入社し[7]、コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し[7]、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。歌詞の処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという[8]。また、この頃よりオフィス・トゥー・ワンに所属する(死去まで)。
その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。
上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。しかし、1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。
直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。
2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。
日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。
また、第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。 2009年 明治大学連合父兄会阿久悠作詞賞制定。
2010年、明治大学アカデミーコモン地階に阿久悠記念館が開設された[9]。
33年間の核核酸食
初夏の北欧=北海道 ゴキブリもいません 最高の季節です。
心斎橋から友人=書房のお得意様が、いらっしゃった昨日。せっかく30年ぶりに来たというので、あまり札幌も詳しくありませんでしたので、喫茶=内装は建築家の安藤忠雄氏によるインテリジェントモダンなデザインを取り入れ、新旧の素材とデザインが融合した、イメージは、大阪の一度は行ってみたいと思っている司馬遼太郎記念館のあの本のイメージです。
ただ、司馬さんのところは、確か、15万冊。ここは、6000千冊で、お菓子と北海道の歴史の本だけですが。
ここで、大阪の話などをじっくりと聴きました。とにかく、今回の旅は、北海道にしかないものを食べたい、お土産にしたいということ。
ここ北菓楼は、ピアノも置いてあり、たまに、コンサートもやるというので、よく考えたら、クロッキー会の大道り公園のすぐ近く、今度一人で、来たいなとふと思いました。
世界中を旅してきた話やら、ドイツ、フランス、スイス、ルーブルにオルセーに、その他もろもろの世界の美術館の話。
今度は、ハンガリーに行くとか。
ところで、サッポロ。
しかし。私は、まず、知識がないですし、車もなし。
岩見沢市の、白亜ダイシンに行きたいということらしいが、東京のように、距離は同じでも、乗り換えやら、電車賃はやたら高いので、諦め、地下道にあるダイシンの支店を紹介。
最初は、大道り公園で、サッポロクラシックと、とうもろこしを、晴れた青空の下で、食べれたら良い思い出になるだろうと、プランしていましたが、残念ながら、雨。昨日は、雨でしたが、本日は晴れていますので、きっといくことでしょう。
・・・・というわけで、昨日は。
小雨が残念でしたが。
フランスやら、スペインやら、ドイツやら、世界中を旅行して、クラシックコンサートを聴き、絵画を見ては、三つ星レストランで食事をしてきた友人のことですから、「フランス人は小雨くらいでは傘なんかささないのよ」とか、言っていましたが、それは本当です。^^
次に。
北海道の象徴、「赤れんが」の愛称で知られる札幌にある煉瓦づくりの北海道庁旧本庁舎。1888年に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築。館内では北海道の歴史をたどる資料を展示してありますが、時間がなかったので、中には入らず、景色だけを散歩しながら楽しんでまいりました。
小雨の後だけに、晴れた日とはまた一味、違う、睡蓮、蓮、の風景が、素晴らしく、観光客で、いっぱいでした。
絵をじっくり描きたくなるような、不思議な、非日常の空間で、都会のど真ん中に、こんな自然があるのが日本らしいですね。
・・・・・
感動の風景でした。(耳には、中国語と韓国語しか聞こえません。日本人はあんな大声では喋りませんから。^^)
また。
なにやら、屋台が野菜の叩き売りをしていて、安い安い。
関西弁で、友人が話していると、とある野菜屋のおっさんが、キノコの大袋=30個入り取れたばかり、もう明日で終わりだから、持ってけ泥棒とばかり、ただで、くれました。よかったよかった。ラッキーです。
その後。根室回転寿し=最近銀座にも出店した地元の人が3時間まちする人気の寿司屋に行き、待っている間に、JRの展望台で一休み。
ここでも、着物の話や、能楽堂やら、シテの話やら、彼女の好きな、和の話で盛り上がりました。
夕飯は、寿し。
ホヤ、ウニ、ミズタコ、イワシ=これは私専用、いくらはたまたま品切れ、とびっこ、めふん=鮭の腎臓、などなど、
大阪にはないものだけを食し、お別れの前に、ステラプレイスの隠れ家の、イタリア料理店で、腹は一杯だったので、
赤ワインと、友人は、北海道にしかなくて、生まれて初めて、ガラナ、を飲みました。へえっという感じでしたね。笑。
私が元、着物屋だったので、龍村さんの帯や川島の帯の話で、盛り上がり、最後はずっと、京都の話ばかり。
おみやげには、旅好きの友人から、日本橋の蛇腹便箋、京都唐長さんの便箋封筒、司馬遼太郎記念館の封筒、と、私の好みのものをいただき感謝。ワインまでいただき感謝です。
9時ごろ。
バスに乗り込んだら、Oさんにばったり。
今度のjazzのライブの話で、あれこれ、それこれ、これあれ、楽しく語っているうちに、あっという間に、市立病院前。
本のある生活
介護父のテレビが、以前から、消えたり、ついたりしていた。
大型テレビだし、介護父の唯一の楽しみ=テレビなので、寝たきりの部屋にあった方がいいに決まっています。
それが、ついに、寿命なのか、死にました。
すると、不思議なことに、普段全く使用していない、客間のテレビのスイッチを入れ、ソファーに腰掛けて、新聞を読み、コーヒーを私が入れたのは普段は飲みませんが、飲みながら、テレビを見ているではありませんか。
ピンチはチャンス。
一日に、少しでも、違う部屋で、テレビを見て、疲れたら、自分の部屋で、寝る。また、テレビを見たくなったり、新聞を読みたくなったり、ジュースを飲みたくなったら、客間まで、歩いて、気分転換。
いいことだと思いました。
・・・・・・・・・・・
私は、朝の一番、体調の良い時に、ハードな仕事をします。
本の整理整頓です。
綿で、綺麗に、拭いて、こ破れのところはテープを貼り、パラフィン紙に包んで、保存します。
だいたい、アルコールを少しつけたカット綿で本を拭いてあげると、本はよみがえりますが。
まれにアルコールに弱いカバーの出版社があります。
コーティングがされている本は問題ありませんが、それがない本は、アルコールをつけるとシミになりやすいです。角川文庫に
けっこう多いと思います。
栞の紐も、今や、新潮文庫だけについていますが、紐が切れているのも多々ありますので、オリジナルの、栞を作って、挟み込んでおくと、読んで途中で、書庫に戻す時に印になります。それに、大好きなフランス映画の女優やら、グレースケリーの、オリジナル栞を挟んで、本を読む至福。たまりません。もちろん、酒=泡つきです。
本を地下から持ってきて、また元に戻す。3階から、地下=一階まで、階段を上り下りすると、汗だくになります。これまた、ピンチはチャンスで、健康そのものになれますから。
常に、踊りながら、読書をするつもりで。笑。
海老蔵「妻を天から授かったのだと、おもうばかり」 日刊スポーツよりand BBC NEWS
さっきで、哀悼のコメントが、46667に、なっていた。BBCニュースをここに記録。なんど見ても、泣ける。不思議。
A former Japanese newsreader who won legions of admirers after deciding to publicly chronicle her battle with cancer has died of the disease.
Mao Kobayashi, who was named one of the BBC's 100 Women in 2016, died late on Thursday at home in Tokyo, aged 34.
Her husband, famous kabuki actor Ebizo Ichikawa, said in his own blog it was "the day I cried most in my life".
Ms Kobayashi's blog was ground-breaking in a country where people do not like to discuss personal issues.
Kokoro - the cancer blog gripping Japan
Like many others, she had initially concealed her battle with breast cancer from public view, scared of "being associated" with illness as she continued to aspire to the ideal of "the perfect mother".
Writing for the BBC last year, the mother-of-two admitted: "I had been blaming myself and thinking of myself as a 'failure' for not being able to live as I had before. I was hiding behind my pain."
It was only after a Japanese media outlet published a story about her illness that she decided to "step into the sunlight" and discovered how much support there was for her in Japan.
Image copyright Mao Kobayashi
Image caption She found many supporters after deciding to write about her illness online
Ms Kobayashi's last entry onto the blog was posted on Tuesday, describing how she was enjoying the taste of orange juice squeezed by her mother.
She had been hoping at see a performance by her four-year-old on 3 July.
Unfortunately, that was not to be.
Mr Ichikawa, who lost his father, the famed kabuki actor Danjuro Ichikawa XII to pneumonia four years ago, told a press conference on Friday that the family gathered on Thursday after Ms Kobayashi's mother realised her condition had taken a turn for the worse.
"Mao was able to talk the day before yesterday, but yesterday, she was unable to speak. When she passed, she was looking at me. She said 'I love you' and left us."
Image copyright Mao Kobayashi
Image caption She leaves behind her husband and two small children
Mr Ichikawa said his wife continued to think only of her family and "show them her smile" until the last, adding: "She fought the cancer hard, she thought she could be of help to others if she could cure the illness.
"That's why she started her blog. Because of the media, her illness became public, and in a way, it was a good thing.
"By starting the blog, she could share feelings with those who're fighting the same illness. She was incredible. I know I'll keep learning from her."
歌舞伎俳優・市川海老蔵(39)が25日、ブログで、22日夜に妻の小林麻央さん(享年34)が乳がんで亡くなり、23日の会見で明らかにしてから、世界中からメッセージが届いたと明かし「改めてすごい妻を天から授かったのだと、おもうばかり」と、麻央さんの存在感の大きさをあらためてつづった。
【写真】ウエディングドレスで登場した小林麻央さん
海老蔵は、千秋楽を迎えた東京・渋谷のシアターコクーンで上演した自主公演「市川海老蔵 第四回 自主公演 ABKAI 2017~石川五右衛門 外伝 ~」の、まさに千秋楽中の楽屋で思いをつづったようだ。
「ロンドンの知り合いから中国でもアメリカからも みんな連絡をしてくれます、まお どうして皆様ご存知なのかはわかりませんが、私 改めてすごい妻を天から授かったのだと、おもうばかり、おもうばかりです、」
麻央さんの死については、英国の公共放送BBCの電子版が23日「小林麻央さん。日本のがん患者のブロガーが34歳で亡くなった。がんとの戦いを公にすることで多くの人に共感と感動を与え、BBCが2016年に世界に影響を与えた100人の女性に選んだ、かつての日本のニュースキャスターが、木曜の夜遅くに乳がんで亡くなりました。夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵はブログに『人生で最も泣いた日だ』と書いた。小林さんのブログは、個人的なことを明かすのを嫌う日本人の国民性においては、画期的なものだった」などと大きく報じていた。
また海老蔵は、長女麗禾(れいか)ちゃん(5)がこの日「ABKAI」の舞台に立つこと、長男勸玄(かんげん)くん(4)は恥ずかしがって出ないことも報告。「出ないけど 恥ずかしいけど やる気、難しい年頃です七月大歌舞伎心配のタネです、」(原文のまま)と、7月2日開演の「七月大歌舞伎」夜の部「駄右衛門花御所異聞」を前に、子育てと稽古の難しさを打ち明けた。
◉
コメント46667の一部、
- 麻央さんが旅立たれて2日が経ちました。
- いかがお過ごしですか?
- きっと、これまで動けなかった分、海老蔵さんのお隣や、お子様のお隣、御両親、麻耶さんの隣にとお忙しくされているのではありませんか?
- 海老蔵さんがとっても頑張っていらっしゃいます。皆さんの悲しみがどれ程深いものなのか、知る由もありませんが、麻央さんの深い深い愛情で、どうかご無理なさらない様に包んであげてください。
- 私達はずっとずっと麻央さんの事、そして日々を一生懸命生きる事を教えてくださったこと、満面の笑顔決して忘れません。私の中では、海老蔵さんを優しく思いやる、ご結納の時の満面の笑顔が麻央さんです。愛そのものです。
- 女性として妻として嫁として母として、そして1人の人間として尊敬しています。
- 私も癌の経験者ですが、1日1日を今までよりも更に深く感じながら生きていきたいと改めて学びました。有難うございました。心より御冥福をお祈りいたします。
- satomi fm mama2017-06-25 07:08:32返信する
- 46212
- 無題
- 麻央さん
- 素晴らしい美しい女性です。
- 美しい心教えてくださりありがとうございます。
- 愛してる…と旅立たれ涙がとまりません。
- あなたの大切なご家族大切な方をこれからも
- やさしい笑顔で見守ってください。
- 痛み辛さはきっと本人にしかわからない辛さですよね。今はゆっくり安らかに好きな物いっぱい食べて
- 好きなこといっぱいしてくださいね。
- 合掌
- ♡さわっち♡2017-06-25 07:08:31返信する
- 46211
- あなたを忘れません
- あなたが自分の人生を明るく優しく常に前向きに精一杯生きたことを僕は決して忘れません。
- 僕はあなたほど強い人間ではありませんが、あたから人として教えられたこと感じさせられたことを実践しながら、あなたが生きたくても生きることができなかった「今日」という日々を大切に大切に自分らしく生きていこうと思います。
- お二人のお子さんのこれからの幸せを願うと共に私も見守ってまいります。
- これまで本当にお疲れ様でした。
- そしてこれまで本当にありがとうございました。
- 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
- うるうる2017-06-25 07:08:26返信する
- 46210
- あらためて ありがとうございます
- 生きることの意味を遺してくださいまして ありがとうございます。まおさんの言葉を、笑顔を楽しみにしていました。このブログの笑顔で 今日もがんばります。
- ponpon314pon2017-06-25 07:08:26返信する
- 46209
- 麻央さんの夢
- 明け方麻央さんの夢を見ました。
- 色々な思い出を話して下さいました。
- 苦しさからは開放されて自由をえられた
- 美しい表情でした。
- 最後に2冊のノートの内どちらかをお土産に
- とおっしゃり、数少ない白い表紙のノート
- 頂きました。
- べてぃ2017-06-25 07:08:14返信する
- 46208
- 麻央ちゃんありがとう
- 麻央ちゃん本当にお疲れ様でした。
- ゆっくり休んでくださいね。麻央ちゃんのことは
- 忘れないです!いっぱい感動をありがとう。
- まろ2017-06-25 07:08:13返信する
- 46207
- 無題
- 麻央ちゃん。麻央ちゃんは、病気になんて、負けてないよ!
- 闘って戦い抜いた強い人。
- 麻央ちゃんにたくさん、たくさん、励まされた。
- ありがとう。
- こんなにも気持ちを寄せた芸能人は、初めてだよ。
- 麻央ちゃんが、ブログを開いてくれて良かった。
- わたしの友達です。
- 麻央ちゃんと同じように、麻央ちゃんの家族にも祈りを捧げます。
- ゆっくり休んでください。
- ふうか2017-06-25 07:08:11返信する
- 46206
- よく頑張りましたね・・安らかに
- 訃報を聞いたとき・・ただ涙がでてきて
- あんなに頑張っていたのに・・
- 運命と人の命のはかなさ・・を思い知らされました
- 子供さん達の事を考えたらた~くさん心残りが・・
- どうかどうか・・安らかにご冥福をお祈りいたします
- takumi01132162017-06-25 07:07:28返信する
- 46205
- 無題
- まおちゃんありがとう。
- あなたの家族みんなが、これからの人生幸せでありますように。。。
- ゆっくり体休めて下さい。
- momo2017-06-25 07:07:21返信する
- 46204
- 麻央さん ありがとうございました
- 麻央さん
- 淋しいよ 悲しいよ 麻央さんが一番悲しいね
- 麗禾ちゃんの舞台 見ましたか
- かんげんちゃんの舞台も見てあげてね
- 見たかったね。。。
- 麻央さんの 笑顔がみえないのが 淋しい。。
- 海老蔵さんも 見守ってあげてね
- ご冥福 お祈りしています。 もうゆっくり休んでね。
- 大阪より 麻央さんファンより2017-06-25 07:07:13返信する
- 46203
- お疲れ様でした。
- まおさん、お疲れ様です。
- もう、辛くなくなりましたね。
- 今は、下を見下ろして旦那様やご家族、お子様達を見て色々心配してるんじゃないでしょうか?
- そして見えないけど寄り添っているんじゃないでしょうかね?
- 49日まではこの世に、その後は仏様になりお空に行くと母が亡くなった時に聞きました。
- ずっと応援してましたよ。
- 治るって…
- とても残念で悔しいです。
- でも、まおさんは頑張りました。
- もう、痛みも亡くなった美味しい物も食べますもんね。
- 素敵な旦那様やご家族が、2人のお子様を
- 大切に大切に育てていくと思います。
- どうかご心配なさらずに、見守っていてあげて下さいませ。
- 今まで本当にありがとう。
- まおさんの強さ、優しさ、私も見習って
- 生きていきたいと思います。
- strawberrycafe2017-06-25 07:07:13返信する
- 46202
- 無題
- 麻央ちゃん、お疲れさまでした。
- あまりにも早すぎるお別れ・・・。
- でも、可哀想なんて言いません。だって、まえに「可哀想」とは言われたくないって言ってたもんね。
- 麻央ちゃんは本当に立派でした!
- 麻麻ちゃん、今は痛みも息苦しさも忘れてゆっくり休んでくださいね。
- 実里2017-06-25 07:07:03返信する
- 46201
- 無題
- まおさん、本当におつかれさまでした。
- そして、ありがとう。
- 全力で生き抜いたあなたの事を、みんな忘れないでしょう。
- このブログを通して、またニュースを通して、あなたは私達の心にも愛の種をまいていかれました。お子様達のことはきっと、私達を含めた多くの人々が愛情をもって見守っています。安心して休んで下さいね。
- マキコ2017-06-25 07:07:02返信する
- 46200
- ありがとう
- 医学の進歩を、待ってました。
- 癌が消える”薬”
- 麻央ちゃんが、先に開発しました。
- Kokoroという、誰もが優しくなれる”薬”
- Kokoroは生き続けます。
- 本当にありがとう。
- あんず2017-06-25 07:07:02返信する
- 46199
- まおさん
- つらかったし悲しかったし怖かったよね、、、まおさん、ゆっくり休んでください。安らかに。まおさん、ずっと忘れません。
- minemine2017-06-25 07:06:55返信する
- 46198
- 麻央ちゃんへ
- 麻央ちゃんは私にとって、これからもずっとあこがれの女性です。
- 素敵なご家族、周りの方々に恵まれて、麻央ちゃんは幸せな方ですね。
- 麻央ちゃん、たくさんの優しさと愛を教えてくださってありがとうございました。
- ゆっくりおやすみください。
- Yuu2017-06-25 07:06:44返信する
- 46197
- まおちゃん
- まおちゃんの笑顔はとても輝いていて大好きです!
- 病気と闘いとても頑張っていましたね。
- まおちゃんがくれた沢山の笑顔・勇気・頑張り…みている人に元気をくれました。
- 本当にありがとう!!
- あなたの姿はとても素敵でした。
- ゆっくりと休んで下さいね。
- 小林麻央というステキな人が生きていたことずっと忘れません。
- えり2017-06-25 07:06:25返信する
- 46196
- 無題
- めざましテレビで出てた頃から応援していました。
- 闘病お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね。
- 本当にありがとうございました。
- (雪´ω`印)2017-06-25 07:05:50返信する
- 46195
- 麻央ちゃん
- 痛みのない世界でゆっくりできていますか?これからはゆっくり歌舞伎を鑑賞できますね。どうか、海老蔵さん、れいかちゃん、カンカンを守ってあげてください。
ふと、思うこと。 専門の井戸を深く掘ること=いずれ、広がりものの本質をつかめる力を得る
レヴィ・ストロースが驚いた、日本神話がそのまま残っている体質。長い皇室の歴史。世界にも類のない国ということをもっと知らねば駄目だろう。
ゲルマン神話は、キリスト教に、一気に押し流されてしまった。
ギリシア悲劇は、テキストは残っていても、演劇そのものは残っていないけれども、日本の能はまるでそのまま、丸ごと、残って続いている神秘。
英語の一字一句を深く調べて、地道な作業をコツコツ大切にする渡部昇一氏。
彼の存在は偉大だった。今、彼がいないということは本当に寂しい。小堀圭一氏の親友。
◉資料
渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年(昭和5年)10月15日 - 2017年(平成29年)4月17日[1])は、日本の英語学者、評論家。上智大学名誉教授。専攻は英語文法史。学位はミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)博士。名誉学位はミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)名誉博士。公益財団法人日本財団評議員[2]。
山形県鶴岡市出身。1948年(昭和23年)山形県立鶴岡中学校(旧制)卒業、1949年(昭和24年)山形県立鶴岡第一高等学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業を経て、同年に上智大学文学部英文学科に入学。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了を経てドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程修了。自著[3]によると極貧の状態で大学を卒業し、奇跡的にヨーロッパの大学に留学し、学位を取ることができたと記述されている[4]。
ミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)哲学博士(Dr.Phil. 1958年)、オックスフォード大学留学、ミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)名誉哲学博士(Dr.Phil.h.c. 1994年)。ヨーロッパから帰国して10年ぐらい経った助教授の頃、フルブライト・ヘイズ法によるアジアからの訪問教授プラン(VAPP)によって渡米、4つの州の6つの大学で半学期ずつ講義を行う[5]。上智大学講師、助教授、教授を歴任して定年退職。2001年に上智大学より名誉教授の称号を受ける。
専門の英語学以外にも歴史論、政治・社会評論を著している。内面の充実を求める生活のさまざまなヒントとアイデアを示した著書『知的生活の方法』はベストセラーとなった[6][7]。また、大島淳一のペンネームでジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介した。
古書の蒐集家であり、専門の英語学関係の洋書だけで約一万点を所有。その蔵書目録はA4判600ページあり[3]、日本ビブリオフィル会長を務める。他に主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等。
政治・歴史に関する評論については、保守系オピニオン誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』など保守派寄りのメディアへの寄稿が多い。
近年は魂の存在を肯定する発言を行なうなど、スピリチュアリズムに関する著作を出版していた[8]。
2017年4月17日、心不全により死去。86歳没[1]。
業績 受賞・受勲[編集]
ミュンスター大学で英文法の歴史を研究、1958年ドイツ語で著した学位論文は現地で出版され、英語にも翻訳された。日本語版は「英文法史」として研究社から出ている。[9][誰によって?]授与されたた学位は、”Dr.phil, magna cum laude”「大いなる称賛を以って 博士号」である(因みにこれはラテン語)。[10]
1975年(昭和50年) -『腐敗の時代』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
1985年(昭和60年) -第1回正論大賞受賞。
2015年(平成27年)春 -瑞宝中綬章受勲。
主張[編集]
盧溝橋事件は中国共産党の陰謀である、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張[11]している。
南京事件に関しては、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」[12]と殺害の事実は認めているものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」と虐殺行為は無かったと主張している[13]。WiLL2007年4月号[要ページ番号]では、松井日記の南京についての記述を根拠に、「南京大虐殺は無かった」と主張している。
「ヒトラーやムッソリーニ、二・二六事件の青年将校らは共産主義者である」と主張している[14][15]。
慰安婦問題に関しては、朝日新聞の吉田清治や吉見義明に関連しての報道や日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったもので、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されているとしている[16]。2007年、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」がアメリカ合衆国下院による対日非難決議案(アメリカ合衆国下院121号決議)に対して作成した抗議書に賛同者の一人として署名した。抗議書が駐日アメリカ合衆国大使館へ手渡された同年7月13日、渡部は記者会見で「(対日非難決議案にあるように)朝鮮半島で20万人もの女性をかき集め、トラックで運べば暴動が起きる」と述べ、決議を非難した[17]。
沖縄戦における集団自決問題について、「実際には積極的に日本軍に協力した沖縄の人々が復帰後、左翼メディアに煽動され、歴史で騒げば金が出ると考え、堕落した結果である。」と述べた。また戦時中「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓をもっとも強く鼓吹したのは朝日新聞であったことは看過できないとしている[18]。
戦後の“反日的左翼”の起源を、公職追放など占領政策によって利益を得た「敗戦利得者」および「コリア系」の出自を持つ人々に求め、彼らが東京大学、京都大学などの主要大学、朝日新聞などにポストを占めることで戦後の教育界、言論界は歪められたとしている[19]。
満州にアメリカを関わらせなかったことは失敗であったとして、現在の対中外交にもアメリカを関わらせるべきであるとしている[20]。
論争[編集]
参議院議員平泉渉が1974年、自民党政務調査会として「英語教育改革試案[21]」をまとめた。公聴会で意見を求められた事も有る渡部が、雑誌「諸君!」に批判文を掲載。元外交官で仏語に堪能な平泉が応じ、5回に亘って英語教育論が展開される。渡部の主張は、近代西欧文明を享受できたのは複雑な原文でも正確に読める、伝統的英語教育に依ったから。顕在力を養うのは、高校までに潜在力を仕上げた後の問題だ(平泉のアテネ・フランセ通いも同じ)。英語精読力の無い英米育ちの高校生は多い等というもの。経済界、PTAは平泉を支持し、現場の教師は批判的だった。論争の反響は大きく、各方面が取り上げた。[22]
1975(昭和50)年4月から半年間、月刊『言語』誌上で上と神が同根か否かを廻って、大野晋と学問的な論争が続いた[23]。大野によると、上のミは上代特殊仮名遣の甲類で、神のミは乙類であるから、両者に関係が無い[24]。「神は上にあらず」[25]は白石、宣長以来の定説を覆す主張であった[26]。同一語源の語が意味の分化を生じたなら、それに従って語形の一部を変えるのが自然ではないか、大野説では日(甲類)と火(乙類)の同一語源を説明できない、口腔図の距離と音韻転化に関係が無い、 甲類が先で乙類が後の時系列か、等とする主張を渡部は、主に日本語以外の例で述べた[27]。論争の終盤で他の学者が渡部支持だった[28]、大野の反論が無かった[29]故に論争の決着はついたようだ[30]。「上にいますから神」という白石・宣長以来の説は少しも妥当性を失っていない[31]、と渡部は述べている。
南京事件についての主張は、現代史家の秦郁彦から批判されている[32]。「大幅借用」問題は1984年に出版された『南京虐殺の虚構(田中正明)』で渡部の「大げさな推薦文[33]にカチンと来」[34]た秦が、1年後に田中の「松井石根大将の陣中日記」改竄が明らかになったのを機に、田中・渡部らの「まぼろし派」を批判した[35]ことに始まる。自身「中間派」の秦は渡部を、「写真ぐるみゲルリッツを大幅借用したくらいだから、盗用や改竄には理解があるのかも知れない[36]」と、1年前の推薦文を事後の改竄事件から問題視した。俎上に挙げられた渡部『ドイツ参謀本部』は1974年の出版だが、当時「ゲルリッツの本を私自身が翻訳刊行しようと考え[37]」ていたと秦は語る。
1980年『週刊文春』誌上で、小説家の大西巨人に対し、息子2人が血友病であり高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」と問題提起し、大きな論争を巻き起こした。
教科書誤報事件への批判などで朝日新聞・毎日新聞と激しく対立[38]。
皇位継承問題に関しては男系主義者の立場を採っており、この点では小林よしのりと思想的に対立する。
WiLL2008年7月号の日下公人との対談において、「…ですが美智子様が皇室に入られたために、宮中に仕えていた女性がみんな辞めてしまったそうです」と発言したことについて宮内庁より説明を求める抗議を受けている。宮内庁によれば、そのような事実はなく「その根拠,理由などを承知したく」渡部に要求している。また、同誌において渡部は「ですから、皇太子殿下が一番大切な時期にイギリスに4年も留学なさったというのは、長すぎます」と発言している点についても宮内庁は「当時の徳仁親王殿下が英国に留学なさったのは、昭和58年6月から昭和60年10月までの約2年間です」とその発言が正確性を欠いたものであることを指摘している[39]。
「適度の放射線被爆は健康を増進する」[40]との研究から、転換域値は「おそらく、毎時50ミリシーベルトと毎時20ミリシーベルトの間にあるらしい」[41]と述べている。宇宙飛行士・原発労働者の研究[42][43]に基づき、ラドン温泉の例[44]、世田谷区の例[45]、チュビアーナ博士の研究[46]等から裏付けられる。ICRP(国際放射線防護委員会)基準による批判も有り得る[注 1]が、ICRPは21世紀に入ってから進んだ低線量研究の成果を反映していない、と ラッキー博士は主張する[48]。ウェード・アリソンもICRPの勧告は根拠がないから改めるべきだと述べていこと等から、渡部はICRP基準に疑義を呈し[49]、福島県の風評被害の根絶を主張している[50]。
南京事件を調べていて反対尋問の重要性を認識したが、田中裁判では最重要証人に対しこの機会が与えられなかった。1984年『諸君!』誌上で「田中擁護論ではなく、日本の司法の犯罪に関するもの[51]」、即ち刑事免責を確約して得られた違法な嘱託尋問調書に証拠能力は無い、反対尋問を許さない地裁判決は憲法違反である、と問題提起を行った[52]。これに立花隆が『朝日ジャーナル』誌上で応酬する形で進む。秦野章、俵孝太郎、山本七平、小室直樹等が立花の批判の対象にされたが、渡部に対しても冒頭陳述の意味や「証拠能力」と「証拠の証明力」の区別を知らず、裁判記録さえ読むことなく自らの妄想を元に批判をおこなっていると主張した[53]。渡部は第二審が始まった段階で立花との公開論争を打ち切った[54]。2012年、渡部は、要望があればいつでも立花との議論に応じる構えを見せている[55]。立花は『巨悪 vs 言論』のなかで渡部らの批判に対してまとめて、ロッキード事件から時間が経ち皆が忘れていることをいいことに論点ずらしをしている点、ロッキード裁判は丸紅による収賄に対する裁判でありロッキード社については周辺事項にすぎない点、ロッキード裁判は榎本敏夫が完全自供した時点で決着している点を指摘している。また最高裁判決も、立花らが主張した有罪が確定している。田中の死により上告棄却されたが、榎本首相秘書官の上告審で、最高裁は嘱託尋問調書の証拠能力を否定した。当初からの主張は正しかった。法に基づく適正手続きを欠いたロッキード裁判は裁判史上最大の汚点である、と言い続けている[56]。
その他[編集]
幼少時代は、貧しいながらも父が本に関しては制限しなかったために、少年倶楽部を好んで読んでいた[57]。
大学1年の夏休みに帰省すると、父親が失職していた。来年の授業料の見通しが立たない。学科で首席になり、授業料を免除してもらう(特待生)以外に道は無い。必死の覚悟で勉強した。おかげで授業料をその後は払うことなく卒業できた。[58]
留学した初めの頃は(専攻外の)ドイツ語が通じなかった。ウンターハルトング(楽しき語らい)に男女学生を誘って歓談上手に努力したので、3年後には応じきれないほど家庭から招かれた。[59]
大学の哲学授業に百点満点を取り、自信になった。学位論文にもハイデガー、グラープマンに言及・引用した事が好印象を与え、おそらくそんなこともあって、学位に「magna cum laude」という美称がついている、と渡部は語る。[60]
ドイツの伝統ある官立大学で師事したのはシュナイダー教授であったが、生涯で僅か15人しか哲学博士(Ph.D.)を造らなかった。その4番目がPh.D. 渡部である。[61]
1960年代何度か訪日した、経済学者で思想家のフリードリヒ・ハイエクの通訳を務めていた[62]。
蔵書は14万冊を超える(井上ひさしや阪神大震災前の谷沢永一は20万冊、立花隆は10万冊、丸山眞男は3万冊ともいわれる)[要出典]。そのため本の置き場に困り妻からは「うちには人権ではなくて本権がある」といわれたことがあった。意を決して70歳を過ぎて借金をしてその蔵書全てが収まる書庫を建設したが、すでにスペースが埋まってきているとのこと[63]。
近年は幸福の科学との交流が深く、大川隆法と対談を行ったこともあり[64]、ザ・リバティに有識者として意見を述べている。大川隆法による霊言「渡部昇一流潜在意識成功法」が出版されていることに対し、「読んでみた所、守護霊の意見は8割ぐらい同じだった」と述べている[65]。
堺屋太一・竹村健一と交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出したりしている。
田中角栄を巨悪と断じ、政界から葬り去ることを正義とする世相の最中「堂々と持論を発表されていた渡部先生を尊敬しています」と、著名な憲法学者から告白されたと述べている[66]。
著作はすべて初版で読んできたというほどの松本清張のファンである[67]が、『昭和史 松本清張と私』では松本の歴史観に対し違和感も表明している。
史論家として頼山陽・徳富蘇峰・樋口清之を高く評価しており、頼山陽の『日本楽府』を現代語訳している。
河合栄治郎を尊敬していると述べている。
自民党の衆議院議員稲田朋美の全国後援会『ともみ組』会長を務める[68]。
映画「南京の真実」の賛同者。
若い頃から音楽にはほとんど興味がなかったが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストであることもあり、3人の子供が全員音楽家(長女:ピアニスト、長男:チェリスト、次男:ヴァイオリニスト)となっている[69][70]。
古くから世界基督教統一神霊協会(統一教会)と関係を持つ。1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京勝共講師団結成集会では基調講演を行っている[71]。また、自宅に無料配布される世界日報 (日本)は発行母体が統一教会という問題の有る団体だが、文鮮明絡みを除けば[72]「この四分の一世紀の間、日本のクオリティ・ペーパーであった」と2001年1月の世界日報25周年記念メッセージ[73]において6行で、他の4人とともに述べている。また一時「世界日報をおすすめします」と題する世界日報の広告にも登場し、同様の内容のコメントが他の3氏の物と共に掲載されていた[74]。
アパグループが主催した第1回『「「真の近現代史観」懸賞論文』懸賞論文の審査委員長を務めた。2008年10月31日に最優秀藤誠志賞に航空自衛隊幕僚長・田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」を選考[75]した。論文内容は「侵略国家ではなかった」とし、日中戦争の原因を蒋介石に巻き込まれた濡れ衣であると主張するなど、渡部の近現代史論に近いものであった。その後、この論文は田母神が「政府見解と異なる主張をしたうえ、上層部の許可を得ずに外部に論文を提出した」などとして防衛大臣の浜田靖一に即日更迭処分を受ける一因[76]となった。
●彼の属していた日本文化会議のそうそうたるメンバー。
日本文化会議(にほんぶんかかいぎ)は、保守系知識人の文化団体。1968年、田中美知太郎を中心に結成され、94年に解散した。雑誌『文化会議』を刊行し、東西比較文化などでセミナーを開催し、書籍として刊行していた。1969年創刊の文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』の執筆メンバーを形成し、サントリー文化財団、国際日本文化研究センターなどへ発展した。
編纂[編集]
日本は国家か 読売新聞社 1969
70年代のアジアと日本 読売新聞社 1970
アジア人はアジアをどうみるか 経済往来社 1971
日本に教育はあるか 共同討議 研究社出版 1972
日本人の法意識 調査分析 至誠堂 1973
日本におけるジャーナリズムの特質 東西文化比較研究 研究社出版 1973
日本美は可能か 美意識と倫理 東西文化比較研究 研究社出版 1973
自然の思想 東西文化比較研究 研究社出版 1974
日本人にとって法とは何か 共同討議 研究社出版 1974
ことばと文化 東西文化比較研究 研究社出版 1976
日本人は自由か 紀伊国屋書店 1976
歴史像の東西 東西文化比較研究 研究社出版 1976
文化と国土設計 東西文化比較研究 PHP研究所 1978.11
国際誤解の構造 東西文化比較研究 PHP研究所 1979.9
文化と国土設計に関する調査 日本文化会議 1979.3
国際誤解と日本人 新しい日本人のイメージ 三修社 1980.12
西欧の正義日本の正義 三修社 1980.3
日本の知識人 その系譜と役割 PHP研究所 1980.7
地方都市のまちづくりと景観に関する調査 日本文化会議 1981.3
沿岸域総合利用計画調査報告書 沿岸域の歴史的・文化的側面を中心として 日本文化会議 1982.3
現代日本人の法意識 第一法規出版 1982.7
適応力 新しい日本人の条件 三修社 1982.1
日本と国際環境 三修社 1982.11
国際誤解と日本人 三修社 1983.6
成熟社会への条件 自己変革の時代 三修社 1983.12
経済と文化の時代 新しい関係を求めて 三修社 1985.1
激論・教育 改革の視点 三修社 1985.9
東京における水辺空間の歴史的研究 日本文化会議 1985.3
歴史のある文明・歴史のない文明 岡田英弘ほか編 筑摩書房 1992
世界都市の条件 高階秀爾・芳賀徹編 筑摩書房 1992
新しいアジアのドラマ 川勝平太編 筑摩書房 1994
メンバー[編集]
初代理事長・田中美知太郎
村松剛-設立趣意書を執筆
三島由紀夫-没する(自決)寸前に脱会
鈴木重信
川端康成
小堀杏奴
会田雄次
飯田経夫
菊竹清訓
木村尚三郎
黒川紀章
阿川弘之
高坂正堯
石川忠雄
河盛好蔵
中村光夫
渡部昇一
香山健一
小堀桂一郎
江藤淳
平川祐弘
村松暎
勝部真長
小松左京
佐伯彰一
下河辺淳
岡崎久彦
竹内靖雄
野田宣雄
田久保忠衛
芳賀徹
林健太郎
本間長世
武田豊
平岩外四
武藤光朗
山崎正和
白洲正子
清水幾太郎
石川忠雄
神谷不二
高階秀爾
岩田慶治
林吉郎
小木新造
渡辺利夫
関嘉彦
源了圓
粕谷一希
今道友信
山本七平
グレゴリー・クラーク
岡田英弘
斎藤美津子
志水速雄
佐瀬昌盛
佐藤誠三郎
天谷直弘
佐々淳行
中嶋嶺雄
矢野暢
永井陽之助
小田晋
徳岡孝夫
島田謹二
小池和男
木田宏
水野肇
藤井隆(2代目理事長)
桑木務
増田弘
公文俊平
佐伯喜一
小島慶三
石井威望
千谷七郎
入江隆則
加藤寛
藤井丙午
鳥海靖
井尻千男
高根正秋
川勝平太