この地球の上で、あらゆる生物が進化しつづけている。
そこで、無意識のなかで、弱肉強食の世界があり、何億年もかけて次第に、「意識」が登場してくるというのは、ユング先生からの受け売りだが、もともとは皆、無意識の大海であっぷあっぷしていたのである。
いまでも、その無意識は、夢のなかで、あるいは愛する人や子供たちへの第六感、あるいは、ドラッグを吸ったり、偉大な芸術の感激のなかで、その無意識はひょっこり顔をだしてわたしたちをのぞきこむ。
好きな人にメールを打っていたらその時向こうもメールを打っている。
疲れたとメールを入れたら、疲れたというメールが瞬時にくる。
あの本が読みたいけどどこに行ったかわからないというときに、なんとしても読みたいと思って枕元に手を出せばその本がそこにあった。
夢で友だちの母が死んだ夢を見たら翌日友だちから母親が死んだという電話があった。
こんなことは誰でもたくさんあることでしょう。
私も、今なにやら神秘主義、ユング、という私のいつも頭にあることを始終考えているせいか、それに関することがどんどん私のまわりにあつまってきます。
情報は求めなければ集まらないともいいますが。
フランス象徴画の画集。
ビデオでの油絵の資料にぴったりのシーン。
梅原猛氏の日本人論。
ユングの人と象徴。
ボッスの絵につながる写真きりぬき二三枚。
生命潮流の本見つかる。
ダブリン市民読みふける。
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無意識についてのイメージがどんどんたまる。
脳の働き=心という、ちょっと私とは考えは違うがおもしろい本発見。
脳=単位=モジュール。
つまり、言葉でいうと、あいうえおというひとつひとつのひらがなの暗記からはじまり、それが、「りんご」とか「もも」とかいう言葉の単位=モジュールになり、それが、こんどは「文章になる」=わたしはモモを食べた。
その言葉の進化?と、脳の進化は同じではないかという仮説。
先日見た、「ショパン」では、自分が死んだら、心臓=♥は、故郷のポーランドにもどしてあげてという彼の遺言をたしか姉が果たすわけだが、心が心臓にあると信じる人もまだいるにちがいない。
肝臓移植のあと、「自分だという気持ちがしない」という患者の本も読んだ。
つまり、脳ホルモンは、肝臓でつくられるのだから、肝臓が変われば、何かこれまでの自分とは違うという気持ちを持つのだと思う。
というわけで、眼に見えない世界はバカにしてはいけない。
わたしたちの眼に「見える世界」なんていうものは、たかが、その氷山の一角かもしれないのだから。・・・
視覚は大事だが、もっと大事なのは、「感じる」ことだ。全身で。
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眼に見えない事
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