普通、学問は積み重ねだと言う。
思索はピラミッドのように縦につみかさなるものなのだろうか?
諸行無常を日々感じることが得意な日本人ならまだしも、無常観は
西洋人のあのマッチョな体では感じることがむずかしいのかもしれない。
しかしながら。
この、マイルスのトランペット。
いわゆる、けまね=気間音、がある。
無常観もある。日本人ならスーッと、心にはいるのではないだろうか。
しかし、こんなトランペットを吹ける彼が、ビッチェズブリューやらに傾きはじめ、
on the corner のような曲をつくる。
コルトレーンも、あんなに素敵なバラードが吹けるのに、最後の最後は、アセンションのようないわば、「抽象画的」な作風に、のめり込んでいく。
アフリカの原始人の音楽を採取しにも行ったようだ。
ピカソもそうだ。
これだけの天才的なデッサンが描けるのに・・・
このように変化していく。・・・・・ゲルニカもそうだ。
マイルスも、ピカソも、ふたりとも、時代の先端を意識して、走っている。
観客が、拍手をしはじめると、もう、次のことを考えている。
新作に、拍手がないからこそ、あたらしいのだと、考える。
そして、時間がたち、観客がその美を理解しはじめたころ、拍手をし始めた頃には、ふたりとも、また、新しいものを作り始めている。
変化=本質。
これが、一流のアーティストでもなかなか、できないで、皆苦労している。
麻薬を吸ったり、さまざまなるストレスで、あるいは、病で、倒れることもある。
そんな変化を追い求めるピカソが、確か、本妻のオルガから頼まれます。
絶対に、私の顔を「変」に描かないでと・・・・
あのピカソでさへ、彼女のリクエストには、負けて、次のような古典的な作風の作品を描いています。
さすがに女性は強い。
そして、ピカソの優しい・きちんとした面がひきだされるのかもしれない。
このあたりは、むずかしい。
でも、この作品以外は、また、違う森のなかへ、パッションを求めて、ピカソは消えていきましたが・・・・・・
芸術は、少しタオに似ているのではないだろうか?
普通の学問と違い、
年齢をかさねていけばいくほど、減っていくもの、なのかもしれない。
タオ
学問をすると、日ごとにそれは増えていく。
タオを行うと、日ごとにそれは減っていく。
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変化し続けること・・・・・・・・・
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