以前努めていた会社は、営業だったせいか、いろいろなお客様がいて、特に水商売の女性の方からおもしろい話を聞けた。
良くも悪くも体を張って生きている人間ということだと思う。
岡本太郎がこんなことを書いている。
芸術と青春 (知恵の森文庫)/岡本 太郎
¥540
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「異性がただのあこがれや羞恥心の対象であり、謎であるかぎり、私は決して自由ではあり得ないし、人生や芸術などの真の姿を結局は知る事ができない。異性を怖れぬこと、そして謎を解くこと、それが人生の深みに入る第一歩だと変に神妙に考え込んでしまったのである」
このような考え方は、ちょいとおもしろいと思った。
作家にもいろいろあるが、やはり受け身で待つ、自分からは異性を口説かないタイプの作家もたくさんいるように思える。
つまりモテルわけだ。
だが、村上龍の言葉ではないが、「女にかんたんにモテルようだったら文学なんかやらない」という言葉もまた真実でもある。
そこで、必死に女を研究し、女性を喜ばせようとする積極的なアプローチをするタイプの作家もいる。
上が、カザノバ型で、下がドン・ジュアン型かもしれない。
この岡本太郎の「芸術と青春」を再読してみると、フランスの町で16歳前後の若者が、積極的に町で歩いている女の子達にアプローチをしてのを眺めながら、驚き、そして深く考えさせられている岡本太郎氏がいる。
まさにドン・ファンタイプに変身しようとしているわけだ。
彼の当時の文学上の仲間たるや、ピカソからはじまり、バタイユやらクロソフスキーやらの、人生の修羅をドツボで研究しているような作家や、実存派の作家が多かったせいだろうか、コチコチに固まった消極的な自分を修正していこうとする勇気ある岡本氏もまた、そこにいる。
寛容な女性もいるだろう。
おおらかで、優しい女性もまたいるだろう。
そしてそのなかに、ノエミという彼がであったアルゼンチン系の女性は、岡本太郎をジラセ、くるくるまいさせ、彼を自信喪失に追いこんだ女性である。
彼は、そのどん底の失恋から立ち直って、ようやっと勉強に熱が入り始めた頃に、ノエミに再開し、彼女から、「ああ、あなたはもうスレタ男になってしまったのね」となじられる。
そんな女もまたいるのだと思う。^^
フラレルことを怖れるがあまり、自分の殻に閉じこもって、自分の心に傷がつかないようにすることもある時は、必須かもしれないが、おうおうにしてそれは成長の起爆剤にはならないものだ。
(美人でもどうにもならないくらいにつまらない女性もいる。
イケメンでも同じ。
もちろん見た目もイカさなく、中身もイカさない人間もいるが。^^
ただ、人生58年生きてきて、まだまだ、人生のひょっこではあるが、やはり、女性は自分との相性が一番だ。
ある人にとって最高の女性が違うある人にとって、最高の女性だということはない。
まことに神様はうまく男と女をつくったものと感心してしまう。)
このあたりは、今の10代20代の若者の性に対する考え方や、異性に対するアプローチはどうなっているのだろうか?
私の好きなジャック・ニコルソンの出た、題名は忘れたが、60歳になったある遊び人の男が、
昔遊んだ女性の家に花束を持って訪ねて行くシーンかあった。
ことごとく、花束をぶんなげられ、玄関から一歩もいれてもらえない彼が描かれている。笑い。
これはおもしろい女性の本質の描き方だ。
つまり、女性は、「今愛している家庭や夫、愛人が、一番なのであって過去の男達は、もう不必要」だということかもしれない。
いや、そうではないという女性ももちろんいるとは思うが、そう多くはないだろう。
ところが、男性は、いつまでたっても、昔のつき合った女、遊んだ女、そんな彼女達のことを思い出すものである。
というのは、それが彼の生命力の源になっているからだと思う。
岡本太郎氏は最後の最後に、敏子さんというかけがえのない存在に出会ってほんとうに良かったと思う。
もちろん彼のことだから、もう少し長生きしたら、違う女性にそれこそ爆発して違う作品に昇華させたかもしれないが、それはそれで、良いのだ。
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恋愛のアプローチ 青春の性
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