日本人のこころ〈5〉/講談社
¥1,575
Amazon.co.jp
いつか、沖縄に行ったとき。
昔勤めていた会社の専務が、何かのご褒美に連れて行ってくれました。
もちろん、仕事としての、仕入れや買いつけなどはするのですが。
とにかく、強い日差しのなかに咲く、花達の、強い色彩にびっくり。
それに、大きくたくましい樹々。
それはうねり、幾層にも命を重ねて、悠久の時間のなかで、生きてきた存在感。
そこをとぼとぼ歩いて行く幸福、いまでも忘れられません。
帯を織っている小屋を見学。
そこにフランスの女性がひとり、勉強に来ていて、帯を織っていました。
首里花織り。
刺繍が特徴のある素敵な帯です。
他にも、沖縄にしかないさまざまなキモノを観ては、散歩。散歩しては、またキモノを観ました。
首里城にも行き、また、キモノ博物館にも、専務につれられて見学に。
夜は夜で、でっかいエビ、を御馳走していただきました。酒も話もはずみ、専務も
戦争で片目を失っていましたので、義眼をこちらにじっと向けては、楽しそうに話をしておられましたね。
河ベリからはなにやら踊りの音が。
あれは、なんの祭りだったのでしょうか?
五木寛之の「日本人のこころ」5を読みながら、昔のことを懐かしく思い出していました。
自分が自分が・・という我ではなく、もっと大きな力で高みにひっぱられていく。
これまで、多くのスポーツ選手が偉業を成し遂げたときに、聞いた言葉。
大きな力。無私。
自分ひとりにこだわっているうちは、大きな力はでないのだと思います。
五木寛之氏が沖縄に行って、アクターズスクールの若者と会ったときの彼らの「瞳」の印象を語る。
存在感。
沖縄の歴史の大きな川。
その中からたちあがってくる文化に芸術にそして、若者達。
スペインでは、フラメンコを踊っているときに、まま、そういう「どうしてあんな踊りがおどれたのだろうか」と思う瞬間があると言う、彼らは、それをドゥエンデと言う。
最近、沖縄のニュースを観ていると、給食やコンビニなどでのインスタント食品の普及にともない、男性の寿命がいちじるしく減し、肥満が増えているといいます。
確か、アメリカインディアンに西洋文化が入ったときと同じです。
簡単に酒が手に入り、肥満や、アル中患者がインディアンに増えて行ったと。
平凡なる普通の、日常の中で自分を磨く。
それは、それで、非常に大切なことであります。
しかしながら、それでも、道ばたの野花や草木の成長を敏感に感じ取るようなセンスがそこには必須なのであり、いわゆるただの日常生活の中に埋没して、テレビを観ては、コンビニ弁当を食い散らかし、怠惰と、緊張のない会話に追われているような日常をおくっていると、「力」は、とうてい、充電されてこないでしょう。
自分の生まれた場所や、住んでいる「場」に漲る自然の力を信じ、感謝の気持ちで、日々の土地の食を味わい、静寂のなかに、自分なりの考えを発酵させていく。
そうありたいものです。
↧
ドゥエンデ 悪魔が憑いた瞬間
↧