同じ事をいつもやっているとマンネリになる。
マンネリとは、発想が新鮮にならないということ。
では、私の好きな職人の手技はどうなのか。
やはり、技は時間とともに高まるが、マンネリがあるので、技はいつか止まるでしょう。
あるいは、つまらない作品になるか。
たとえば、鳥。
私は科学者でもないし、知識もないし、生物に詳しくもない。
ただ、考える。
鳥に羽がなぜはえたのかと。
なぜ、空を舞えたのかと。
長い、気の遠くなるような時間のなかで、進化してきたわけですが、
仲間がまず、天敵に襲われて、つぎづきに食われて行く現実があったのかも。
その無意識の怯えや、恐ろしさは、鳥だろうが人間だろうが、かわりはない筈。
細胞には驚くべき活動があることは今や常識だし、生卵が割られる寸前に失神するとか
何かで読んだ。
もちろん失神といっても、人のそれとは違うニュアンスだけども、何かが細胞に起こって、
痛みを減らしているのかもしれない。
人間のマゾヒズムみたいなものも、たぶん、天敵に食われていくその時の痛みの軽減なのかもしれない。
食われてさえ、快楽に転化してしまう・・・
鳥は、そこまでの脳の働きはなく、ただただ、「無意識」が、
天敵から逃げようと、何回、何百回、何千回、何万回、いや、何億回もの、飛翔しょうとする、行動、反応、そんなものが、遺伝子を変容させていったと、考えるしかないではないですか。
擬態と同じですね。
いつのまにか、環境に溶け込んで、自分をその色や形になじませて、天敵の目をくらます。
鳥は、そんな時間の歴史のなかで、ある日、羽が強くなって飛べたんだということでしょう。
少しずつ、少しずつ、羽ができあがってきたんだと。
水のなかの蛙なんかも、手足に泳ぎやすいような形になっていくのと同じでしょう。
でも、不思議ですね。
なんで、そうなるのでしょうか?
脳もまだまだ小さい、意識も人と比べるとまださほど発達していない両生類や、は虫類や、鳥類なんかでも、「無意識」の領域は、人以上に、広大だということですね。
逆に、人は、意識の部分、前頭葉の部分が発達しすぎで、「無意識」をあまり大事にしていないということなのかもしれません。
よく、「無意識」にまかせれば、なんでも、うまくいく、とかいう考え方がありますが、それはほんとうだと思います。
近所の森やら、林やら、歩いていると、樹々が地面から生えている。それが、私の感性にとっては、実に不思議です。
なぜ、光の方向をめざすのか、これが実におもしろい。
専門家に聞けばそんなことはたやすくおしえてくれるのでしょうが、それよりも、樹々の緑の美しさやら、花ビラの水滴、葉脈のおもしろさ、木にとまる蝶や、鳥達のうごきを見ているほうが、文句無しに楽しい。
樹々の生えている部分もまた、距離がほぼ一定というのもおもしろい。
となりの樹々に、遠慮して、どうやら、同じ空間のなかで、自足して、しかも、共生している樹々たち。
時間がくれば、秋に葉は落ち、落ちた葉は朽ち、土と同化して、有機物となり、またまた、肥料として森の大事な基礎の物質となりますね。
人間だって、同じ。
よく桜の下には人の遺体が埋まっているとかいいますが、歴史のある町なんかは、どこの土を掘り起こしても、骨がでてくることでしょうし。
自然です。
物質と違う生物の本質は、自分の遺伝子をコビーできるということですが、そのもともとの物質は、無機物つまり石ころなんかと同じです。
どういうわけか、生物は、無生物からなんとか自分の物質をコピーして次の世代へと残すことによって、自分の遺伝子の生を無限にしようとしたわけですね。
では、輪廻とはなんでしょうか。
先日も、水木しげる氏の実話として紹介されていましたが、彼が原住民のある女の子とつきあって、何年かしてから、日本に帰ってきた。
ある日、不思議にそのジャングルに咲いていた植物をどうしてもほしくなり、花屋で買って家に飾って見ていると実に心が落ち着く。
しかし、ある日、そこに一匹の蝶がいつも舞っていることに気づく水木さん。
ふと、それから何日かたって、おもむろにもとのジャングルの某人物に電話してみると、案の定、その女の子は、死んだという。
水木さんは、涙がとまらなかったといいますね。蝶になってオレのところに来てくれたんだと信じています。
小林秀雄も、プラットフォームから落っこちて、一メートル位置がずれたら死んでいたという事故を起こした時にも、蛍を指しては、おっかさんが確かに自分を助けてくれたということを蛍を見て感じたという。
何かの映画でもありましたね。
戦争で死んだ、戦死が、蛍になって日本にもどってくるとか。
歌でもあります。有名な貴様とオレとは・・・という歌に出てきます。
貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう・・・これも、同じ意味です。
輪廻転生。
勝手な私の意見ですが、人が死んだら、花になったり、鳥になったり、蛍になったり、して、見る人の心に感銘をあたえることもあるでしょうし、犬になって、飼い主に深い喜びをあたえることもあるでしょう。
もちろん、またまた、人に生まれ変わって、修羅地獄を潜り、人間関係の泥沼のなかで、くりかえし、喜怒哀楽を味わうのかもしれません。
稲垣足穂の不思議な言葉も思い出します。
「人間、死ねないのがこまるのじゃ」 はっきり覚えていません。笑い。確かこのような台詞。
それでは、もうこんな時間。
勝手な詩でも書いてみませう。
ぐるりぐるり。
ひとは、まわる。
ぐるりぐるり。
ひとは、おどる。
ぐるりぐるり。
ひとは、うつる。
ほしとつちとひとみずのあいだで、
ひとは、あっぷあっぷしつづける。
ぐるりぐるり
ひとは、なく。
ぐるりぐるり。
ひとは、わらう。
ぐるりぐるり。
ひとはおこる。
ほしとつちとひとみずのあいだで、
ひとは、あっぷあっぷしつづける。
あっぷあっぷが、
ひとのなみだをとめ
あっぷあっぷが、
ひとをほほえませ
あっぷあっぷが、
あかごたちをふやすのであれば
てをつないでみんなでぐるりぐるり。
まわろうではありませんか。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなせなかのうえで。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなめのまえで
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなてのなかで。
マンネリとは、発想が新鮮にならないということ。
では、私の好きな職人の手技はどうなのか。
やはり、技は時間とともに高まるが、マンネリがあるので、技はいつか止まるでしょう。
あるいは、つまらない作品になるか。
たとえば、鳥。
私は科学者でもないし、知識もないし、生物に詳しくもない。
ただ、考える。
鳥に羽がなぜはえたのかと。
なぜ、空を舞えたのかと。
長い、気の遠くなるような時間のなかで、進化してきたわけですが、
仲間がまず、天敵に襲われて、つぎづきに食われて行く現実があったのかも。
その無意識の怯えや、恐ろしさは、鳥だろうが人間だろうが、かわりはない筈。
細胞には驚くべき活動があることは今や常識だし、生卵が割られる寸前に失神するとか
何かで読んだ。
もちろん失神といっても、人のそれとは違うニュアンスだけども、何かが細胞に起こって、
痛みを減らしているのかもしれない。
人間のマゾヒズムみたいなものも、たぶん、天敵に食われていくその時の痛みの軽減なのかもしれない。
食われてさえ、快楽に転化してしまう・・・
鳥は、そこまでの脳の働きはなく、ただただ、「無意識」が、
天敵から逃げようと、何回、何百回、何千回、何万回、いや、何億回もの、飛翔しょうとする、行動、反応、そんなものが、遺伝子を変容させていったと、考えるしかないではないですか。
擬態と同じですね。
いつのまにか、環境に溶け込んで、自分をその色や形になじませて、天敵の目をくらます。
鳥は、そんな時間の歴史のなかで、ある日、羽が強くなって飛べたんだということでしょう。
少しずつ、少しずつ、羽ができあがってきたんだと。
水のなかの蛙なんかも、手足に泳ぎやすいような形になっていくのと同じでしょう。
でも、不思議ですね。
なんで、そうなるのでしょうか?
脳もまだまだ小さい、意識も人と比べるとまださほど発達していない両生類や、は虫類や、鳥類なんかでも、「無意識」の領域は、人以上に、広大だということですね。
逆に、人は、意識の部分、前頭葉の部分が発達しすぎで、「無意識」をあまり大事にしていないということなのかもしれません。
よく、「無意識」にまかせれば、なんでも、うまくいく、とかいう考え方がありますが、それはほんとうだと思います。
近所の森やら、林やら、歩いていると、樹々が地面から生えている。それが、私の感性にとっては、実に不思議です。
なぜ、光の方向をめざすのか、これが実におもしろい。
専門家に聞けばそんなことはたやすくおしえてくれるのでしょうが、それよりも、樹々の緑の美しさやら、花ビラの水滴、葉脈のおもしろさ、木にとまる蝶や、鳥達のうごきを見ているほうが、文句無しに楽しい。
樹々の生えている部分もまた、距離がほぼ一定というのもおもしろい。
となりの樹々に、遠慮して、どうやら、同じ空間のなかで、自足して、しかも、共生している樹々たち。
時間がくれば、秋に葉は落ち、落ちた葉は朽ち、土と同化して、有機物となり、またまた、肥料として森の大事な基礎の物質となりますね。
人間だって、同じ。
よく桜の下には人の遺体が埋まっているとかいいますが、歴史のある町なんかは、どこの土を掘り起こしても、骨がでてくることでしょうし。
自然です。
物質と違う生物の本質は、自分の遺伝子をコビーできるということですが、そのもともとの物質は、無機物つまり石ころなんかと同じです。
どういうわけか、生物は、無生物からなんとか自分の物質をコピーして次の世代へと残すことによって、自分の遺伝子の生を無限にしようとしたわけですね。
では、輪廻とはなんでしょうか。
先日も、水木しげる氏の実話として紹介されていましたが、彼が原住民のある女の子とつきあって、何年かしてから、日本に帰ってきた。
ある日、不思議にそのジャングルに咲いていた植物をどうしてもほしくなり、花屋で買って家に飾って見ていると実に心が落ち着く。
しかし、ある日、そこに一匹の蝶がいつも舞っていることに気づく水木さん。
ふと、それから何日かたって、おもむろにもとのジャングルの某人物に電話してみると、案の定、その女の子は、死んだという。
水木さんは、涙がとまらなかったといいますね。蝶になってオレのところに来てくれたんだと信じています。
小林秀雄も、プラットフォームから落っこちて、一メートル位置がずれたら死んでいたという事故を起こした時にも、蛍を指しては、おっかさんが確かに自分を助けてくれたということを蛍を見て感じたという。
何かの映画でもありましたね。
戦争で死んだ、戦死が、蛍になって日本にもどってくるとか。
歌でもあります。有名な貴様とオレとは・・・という歌に出てきます。
貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう・・・これも、同じ意味です。
輪廻転生。
勝手な私の意見ですが、人が死んだら、花になったり、鳥になったり、蛍になったり、して、見る人の心に感銘をあたえることもあるでしょうし、犬になって、飼い主に深い喜びをあたえることもあるでしょう。
もちろん、またまた、人に生まれ変わって、修羅地獄を潜り、人間関係の泥沼のなかで、くりかえし、喜怒哀楽を味わうのかもしれません。
稲垣足穂の不思議な言葉も思い出します。
「人間、死ねないのがこまるのじゃ」 はっきり覚えていません。笑い。確かこのような台詞。
それでは、もうこんな時間。
勝手な詩でも書いてみませう。
ぐるりぐるり。
ひとは、まわる。
ぐるりぐるり。
ひとは、おどる。
ぐるりぐるり。
ひとは、うつる。
ほしとつちとひとみずのあいだで、
ひとは、あっぷあっぷしつづける。
ぐるりぐるり
ひとは、なく。
ぐるりぐるり。
ひとは、わらう。
ぐるりぐるり。
ひとはおこる。
ほしとつちとひとみずのあいだで、
ひとは、あっぷあっぷしつづける。
あっぷあっぷが、
ひとのなみだをとめ
あっぷあっぷが、
ひとをほほえませ
あっぷあっぷが、
あかごたちをふやすのであれば
てをつないでみんなでぐるりぐるり。
まわろうではありませんか。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなせなかのうえで。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなめのまえで
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
ダンスダンスダンス。
おおきなてのなかで。