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パステル画
普段は油絵か、リキテックスや水彩画なんですが、この絵だけは優しい透明感を出したかったのでした。
和。japan
最近、一番の私のテーマがこの絵になったのかも。・・・・・
今、私のなかで、一番こだわりのあるキーワード。
・・・・・・・・・・・・ところで
日本はオリンピックだけではなくて、すごい。
スポンサーがめちゃめちゃ金をつぎこむ、アメリカや、国共産党ぐるみで選手を管理育成する中国のメダルと比較すると、日本の選手は、みな「普通に職場で働いて、みな開いた時間に練習」をしているというハンディのなかで、これだけのメダルをとれるのだ。
今いろいろ対策が考えられているようだが、少なくとも、週に二三回は練習できる環境を与えて上げたいものだ。
いろいろなアイデアがあるのだと思う。
とある司馬遼太郎の本で、「いずれライフスタイルの世界標準が日本になるかもしれない」というような暗示を読んだことがある。
東京オリンピックで、それがさらに、世界中の人に意識してもらえると嬉しい。
Pina/ピナ・バウシュ
◎資料から
来歴
1940年ドイツのゾーリンゲン生まれ。実家はカフェレストラン。
14歳からエッセンのフォルクヴァング芸術大学(ドイツ語版)でクルト・ヨース(ドイツ語版)に師事。18歳で首席卒業後、国費交換留学生としてニューヨーク、ジュリアード音楽院舞踊科に入学。アントニー・チューダー(英語版)の勧めによりメトロポリタン・オペラ・バレエ団やニュー・アメリカン・バレエ団などで活動。
1962年に帰国し、フォルクヴァンク舞踊団でソリストとして活躍。振付を開始し、1969年には芸術監督に就任。この年フォルクヴァング芸術大学(ドイツ語版)の教授にもなっている。同年の作品 『時の風の中で』 がケルンの国際振付家コンクールで1位を獲得した。
1973年、ヴッパタール舞踊団(ドイツ語版)の芸術監督に就任する。
ドイツ表現主義舞踊の権威であるヨースの影響を色濃く受け継ぎながら、演劇的手法を取り入れたピナ独自の舞踊芸術は演劇とダンスの融合とも言われ、彼女自身は「タンツ・テアター(ドイツ語版)」と呼ぶ。
1983年フェデリコ・フェリーニ監督の映画 『そして船は行く』 に出演。 1999年坂本龍一オペラ 『LIFE』 に出演。 2002年にはペドロ・アルモドバル監督作品 『トーク・トゥ・ハー』 の冒頭で代表作である「カフェ・ミュラー」を彼女自身が踊っている。
2009年6月30日、ガンの告知を受けた5日後に68歳で死去した[1]。日本では前年(2008年)4月2日の滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホールで、『フルムーン』を踊ったのが最後の公演であった[2]。
2011年に彼女の死により制作が中断されていたドキュメンタリー映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』が公開された。
作品
ヴッパタール舞踊団の看板
2009年「春の祭典」のカーテンコール
『春の祭典』(1975年)
『七つの大罪』(1976年)
『カフェ・ミュラー(フランス語版)』(1978年)
『カーネーション(フランス語版)』(1982年)
『ヴィクトール』(1986年)
『パレルモ、パレルモ(フランス語版)』(1989年)
『過去と現在と未来の子どもたちのために』(2002年)
受賞歴
1999年 高松宮殿下記念世界文化賞
2006年 ローレンス・オリヴィエ賞
2007年 京都賞思想・芸術部門
2008年 ゲーテ賞(独)[3]
これらふたつの賞に、目がとまる。彼女のartにはなにやら、日本人に覚醒を迫る何かがあると思う。
日本の漫画のレベル くじらいいく子の「満腹天」と花輪和一の「おとぎ草子」
最近漫画創作のヒントを見つけるために、数冊ビックコミック系の週刊誌をチェック。昨日は、二編、自分の好きなタイプの作品発見。
オール作品読み切りのビックコミックオリジナル。あるいは、オムニバスか。
ひとつは、「ぜつぼうごはん」。
満腹天という少女が、
「人生最後の食事」はなーに食いたいかぁ、とトラックの運転手に問う、不思議な作品。
この先の小骨トンネルでもう少ししたら死ぬんだもん」と少女が言うが、男は、なーにバカ言ってんなよ、と笑うのみ。
満腹天の少女は彼が大好きな、いつもとあるサービスエリアで「かおりさん」という美女がつくるチャーシュードンが大好き。
たまたま売り切れで、また明日来ようとしている彼に、最後の食事としてこのチャーシュードンをつくって上げる少女。
事故の起きる寸前に、その料理は完成し、トラックを運転しながら食べるという設定だから、時間と空間をさておいて、作者の書きたいイマジネーションで書いている。
死ぬまえに、女にもてないトラックのとある運転手が、優しくいつも弁当をつくってくれた思いでに包まれながら成仏するという物語。独特のユーモアと哀しみ。
もうひとつは、花輪和一の「猫の聖地」。
この人は、マニアックな漫画ですでにかなりのレベルの方。
いつもの不気味な線ではあるが、少し週刊誌向きなのか抑えているところが、
かえって彼の才能の大きさを感じる。
「寸止め白日昇天」という言葉がテーマ。
子供の頃は、バタンキューですぐに眠れるのは、昼と夜のあいだに、「寝入り端」という世界があるからだという。
年をとるとなかなか寝れないのは、その世界が狭く薄くなるからだという。
河合隼雄さんではないが、生と死の間は突然に洗われるものではなくて、それはともに、つながっているものである。
人も動物も草木も眠る時にはつながっている・・・これは私もいつもそう思っているが、おそらくユングの集合的無意識あたりからのヒントか。
物語としては、動物虐待を繰り返して喜んでいる連中に天罰を下そうとする、70才くらいに見える実は30才の男性。
ここにも、黒猫と少女が、あの独特の線ででてきて可愛い。
(以前も、五十嵐大介のはなしぱなしを上下買ってしまったが、この作品が載っている「みずほ草子と日本昔話は、買ってしまうだろう。)
最後は寸止め完成した男性が、復讐の夢を語りながら、ブッダのように寸止め成就していく至福を書いている。
おそらくものすごい日本の古典の読書量から生まれた作品だと思う。
それを、可愛い少女と黒猫とのからみで、動物を愛する人達のために、福が集まるように、修行に励んで来て最後に寸止めする男性をさらりと書いていて、わかりやすく、読みやすい。まさに、漫画だからこその世界。
折口信夫やらの本を読む若者など今はいないので、このような漫画から、興味を持つというのもまた漫画の役割かも。
それにしても、もう、日本の漫画は、世界の漫画のトップをはるかに超えていると思う。
Amazonでは、ほぼ、もはや漫画は紙としては販売せずに、kindleとして発売しているので、日本語をそのまま英語翻訳にできる機能がついていれば、ますます、世界中の若者が、日本の漫画の虜になると思う。
たとえば、手塚治虫の「火の鳥」などは英訳されているが、紙としての価格が、ほぼ一冊6000円もする。これじゃあ、外国人も買わないだろう、買えないだろう。
その意味では、kindleの役割は価格を落として、たくさんの人に読んでもらえる役割があると思う。(個人的に、普通の本は、紙の方を愛するものであるが)
東京五輪セレモニー「Love Sport Tokyo 2020」 日本大会PR動画 について
これを見ていると、実際の東京の開会式と閉会式も愉しみになってくる。
振り付けはPerfumeの振付師 MIKIKO先生!音楽は中田ヤスタカ!というのは、当然。
パフォームとあと、確か、ベビメタの振り付けをしている方もでていたのではないだろうか。
音楽監督が椎名林檎だし。すごすぎる。
四年などあっというまにくる。
今回の日本選手から力と勇気をもらって、必死に頑張り始めた、子供達やらの顔が浮かんで嬉しくなる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
体格も貧弱、資源もないともともと言われていた国だけど、歴史だけは古い。
この長い歴史のなかで獲得した、日本人が培って来た、「勤勉」の精神から生まれる、
創意工夫をとうして、いろいろな先端技術があるわけで、日本がなんとか21世紀まで生き延びれて来たのは、そんなところに理由があるのだと思う。
アニメや漫画のすばらしさの影では、幼児ポルノ漫画やら、どうしょうもない漫画も多いのも事実。
がらくたのなかから、素晴しい作品が数%生まれるというのはしかたのないことかもしれないが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リオ五輪 リオ五輪
マリオに扮した安倍首相=21日、マラカナン競技場(川口良介撮影)
安倍晋三首相がマリオに扮したリオデジャネイロ五輪閉会式の演出について、中国のネットユーザーも驚きをもって迎えた。「日本が持つソフト力は恐怖すら覚える」「なんて素晴らしい。減点は安倍だけ」などの声が上がった。
中国版ツイッターとも言える短文投稿サイト「微博(ウェイボ)」上では、閉会式直後から書き込みが相次いだ。「日の丸に嫌悪感しかない」という反日的な反 応があった一方、「伝統文化の発信ではなく、アニメのキャラクターを登場させたのは正解」「東京五輪には期待してしまう。とても印象的だった」などと、演 出に好意的な反応も相次いだ。
また、「日本のアニメは素晴らしい。だがわが国は…」とうらやましがる書き込みも見られた。
あるユーザーは「みな考えてみろ」と呼びかけた上で、アニメを列記してこう指摘した。「東京五輪では桜木花道がバスケットボールの大使をやる。大空翼が サッカーで、越前リョーマがテニスで、月野うさぎが新体操でそれぞれ務める。そしてドラゴンボール、クレヨンしんちゃん、ちびまる子ちゃん、名探偵コナン もある…考えるだけで恐ろしい」
「リオ五輪・閉会式」(21日、マラカナン競技場)
次大会を務める東京五輪が、日本ならではのキャラクターをふんだんに用いてアピールした。日本の安倍晋三首相がブラジルに駆けつけるため、世界的人気ゲーム「マリオブラザーズ」のマリオに変身し、さらにドラえもんの力も借りて地球の裏側にワープするという内容だった。
小池百合子都知事が「フラッグハンドオーバーセレモニー」で五輪旗を引き継いだ後、日本大会をPRする映像が上映された。キャプテン翼やパックマンと いった日本発のキャラクター、北島康介ら日本のメダリストからボールを受け取った安倍首相が東京からリオへ向かわなければならないが、時間がない、という 設定だった。以下略(デイリースポーツ)
海外の反応をまとめました。
マリオ、キャプテン翼、キティちゃん、ドラえもん登場www#閉会式 pic.twitter.com/VMaAZ5Ml1T
— BKS (@BKS_trade) 2016年8月22日
・BGMで流れているのは琴か?
・聖歌隊による日本の国歌を今まで聞いたことがなかった。
素晴らしい。
・日本の国歌に鳥肌が立ったよ。
・日本はセグウェイを使わないといけなかったんだよな?(笑)
・これは本当に日本らしい。ハハハ。
・素晴らしいメッセージだ。
・私は泣いていない。泣いているのは君だ。
・ブラジルの市長はブーイングされている。
日本の知事は歓声を受けている。
・オーマイゴッド!日本の着物は素晴らしい。
・東京都知事に関するトリビア。
彼女はアラビア語を流ちょうに話す。
彼女の父親が、いつか日本で石油不足が起きて、アラブ諸国との関係が重要になると考えたからだ。
彼女はエジプト大学に行った。
・↑彼女はとても有能そうだ。
・ハローキティとマリオ。(笑)
・僕だよ!マリオだよ!
・オーマイゴッド!マリオ!
・キャプテン翼(笑)
・おお!彼らには本当にキャプテン翼がいたのか。
・粋すぎるぜ!東京!
・一体何だこれは?素晴らしい!
・私の中の日本オタクは幸せな気分だ。
・ドラゴンボールZを見せるべきだ!
・日本の首相の登場の仕方は素晴らしかった。
・オーマイゴッド‼日本の首相がマリオの格好をしている。
・安倍がマリオであることが確定した!ハハハ!
・日本の首相は最高だな!
・我々の首相が、あんなことをするのを想像出来ない。(笑)
・東京はアニメ,任天堂,パックマンを取り入れている。
素晴らしい。
・これほど日本的なものを見たことがない。
・こんなの公平じゃない。
日本がすべて持って行った。
・それなのにどうして日本オタクが存在するのか疑問を持つ連中がいる。
・来週、東京でオリンピックを開催してくれないか?
・東京五輪の開会式で悟空を見なかったら、かなりガッカリするだろうな。
・2020年東京五輪は素晴らしいものになるだろう。
・絶対に東京に行くよ。
・今晩、東京行きの航空券を予約する。
人生の目的は生き抜くこと それだけ
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この人の本は、おもしろいです。
客観の極地の科学分析から人間の弱点にもなってきている「必死さ」の欠如。
そして、逆にだからこその「愛」と同義の人の存在価値。
進化と人間行動/長谷川 寿一
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五木寛之ではありませんが、人生に目的などないでしょう。
それぞれ、仕事の目的や、家庭の夢や、個人のやりたいことなど、たくさんの、
目的はあるでしょうが、人生そのものには、目的などはありません。
もちろん。
昨日ブログでも描きましたが、自分の大好きで大好きでやっていることが、多少、他人様の喜びにつながり、
そして、少しは、お金をいただくことができる、これは素晴らしいことですね。
でも、人生そのものには、目的なんかはありません。
人生は、生き抜くことだけです。
フロイトでしたか、記憶にはっきりしていませんが、
「本能の拒否こそが文化だ」と描きました。
それは当然そうでしょうし、ご飯を食べる時に、「本能まるだし」で、
手は洗わない、音をたてて、みそ汁はすする、がつがつ、動物のように食する・・・
それでは、誰からも、相手にはされません。
ただ、今の現代人は、その「本能の拒否」がいきすぎて、
なんでもかんでも、ただ文化的であれば、いいのだという・・・
それは違いますね。
システム的に、一日に、三回、定時刻に、いつものように食をとる。
こんなことをしていたら、体と魂は、弱っていく事はまちがいありません。
腹に聞け!!!!!!
おなかが減ったら、食は、ほんとうに美味い!!!!
(食べたくないときには、おなかの声を聞いて、無理して食べない。・・・・・)
今日、皿洗いをしていると、台所に、アリが数匹。
シロアリではありません。
私は、無意識に、アリをクエン酸の入っている流しのたらいのなかに、アリを落としてしまう。
アリは、数秒で、即死です。
アリも必死に、生きているのですね。
カール・セーガンの本に、確か、ありました。アリではなく、蠅ですが・・・
ちいさな蠅よ/おまえの夏の戯れを/私の心ない手がふり払った/私もまたおまえと同じ蠅であり/おまえもまた私と同じ人間ではないのか/なんとなればある盲目の手が/わたしの翼をふり払うまで/私も踊り、飲み、歌うのだから
ウィリアム・ブレイク
つまり。
人間だって、アリや、蠅のように、気がつくと、死んでいるのですね。
「人の死」というのも、私のキッチンにいた、アリが私の手にふりはらわれたように、
「神」にふりはらわれて、ある日突然に死ぬのでしょうから。
だから、盲目の本能というか、本能を大事にしたいと私は勝手に考えています。
時計がなくても、時間がわかるように。(朝の光だけで、時刻がわかるように。)
匂いだけで、食べ物の新鮮度がわかるように。
匂いで、自分の愛する人がわかるように。
満月などの日、あぶないなと何か感じる時は、あまり出歩かないようにする。
その他、「なんか変だな」という感覚を磨いていく。
動物の世界をたまに知るためにも、本も当然ですが、
近くの、動物園に行きたいものですね。
彼らは、ただひたすら、どうやったら、環境に適応するのか、それだけを無意識に考えていることでしょう。(むろん、彼らも、家畜への道という「適応」も選択することはできますが)
動物園でさへそうですから、 近くの森の鴉や、うさぎや、蛇や、道内でもずっと東の、熊やら、鹿などはまったくそうでしょう。
自然の動物たちにとって、「適応」こそがすべてです。
このことは、私たち人間にとっても、大きなヒントをくれる筈です。
フランスの耽美派の監督の代表格といえばこのロジェ・バデムだが、私が昔好きだった女優
私は17歳のときから、指示され、面倒を見られ、なにもかもプログラムされているという生活を送ってきた。自分自身で考える時間も、自分自身で生きる時間もなかった
ブリジット・バルドー
フランスの耽美派の監督の代表格といえばこのロジェ・バデムだが、私が昔好きだった女優はこの監督がほとんど拉致していきましたから、プレイボーイの見本みたいな人でした。
今日は体調良し。天候よし。
植草甚一さんの本をぺらぺらめくったり、日本の細密画やワイエス画集をぼんやり見たり、自分の描く絵の構図を考えていたら、また冷たい緑茶を飲みたくなり、階下へ。
明るい光がさんさんと。
「今に生き今に死す」ことを念願に私の脳は至高体験を求めてユーチューブを徘徊する。そして、もう「からだ」はつかえないことをいいことに「脳」は我がもの顔でクリップをチェックする。
そしてこんなクリップを見つけてしまう。
ああ、また眠れないではないか。
このクリップを見ていて「死刑台のエレベーター」の25歳の監督ルイ・マルのことを思い出し、大学時代に神田だと思ったがアテネ・フランセで見た「恋人達」のことを思い出した。
ヌーベルバーグはいいなあ。
しびれる。
たとえば、マイルスとコルトレーンが競演している夢のクリップであるが、こんなすごいものを見ていると、この後コルトレーンがマイルスから去っていって代わりにソニー・ロリンズが入って来て、なかなかうまく波長があわずにがっかりしているマイルスの顔が浮かんでくる。
そんなことを考えているうちに、また私はアトリエへ。
豆乳を飲んで少し胃に優しさを与えることにする。
最近は、サプリを大量の豆乳と白湯で飲むことで、非常に便秘がなおってしまった。
ありがたい。
バジェム監督はMJQと一緒に確か「大運河」をつくったが、このDVDはなかなか見つかりません。見たいという気持ちがむらむらとわき起こってきましたが・・・・・
フランスの耽美派の監督の代表格といえばこのロジェ・バデムだが、私が昔好きだった女優はこの監督がほとんど拉致していきましたから、プレイボーイの見本みたいな人でした。
◎彼を愛した女優たち、あるいは愛された女優達あるいは、ただの友達
バルドー
たしか、ドルレアック姉妹・・
ジェーン・フォンダの圧倒的な美しさ
この「バーバレラ」は、圧倒的に私は影響されました。
ジャンヌ・モローいいですねえ。・・・・・・
シェルブールの雨傘最高傑作 昼顔もすばらしい ドヌーヴ
ジーン・セバーグのかっこよさ
しかし、昔マイルスが、即興的にこの死刑台のエレベーターを見ながら、唇から血を流しながらミュートトランペットを吹いたというのは今や伝説になっているが本当の話だからしょうがありません。
こんなふうにしてjazz とつまり音楽と、ミステリー小説と、映画が螺旋的に、合流していく様はほんとに芸術の世界って素晴しいと思います。
この死刑台のエレベーターの原作のノエル・カレフはその後、「その子を殺すな」と「名もしれぬ牛の血」というミステリーを書いているだけのようですが、「死刑台のエレベーター」の後にヌーヴェルヴァーグの恋人と言われたジャンヌ・モローが夜の街を彷徨うさまは、マイルスによる即興演奏と手持ちカメラによる撮影により不安と焦燥感がよく出ております。
ジャンヌ・モローは黒衣の花嫁も良かったですね。
私は彼女の容姿も好きですが、あの声も好きです。
「愛人」ラマンでは、最初の導入部で彼女の声が聞けただけで私はラマンが大好きになってしまったほどですから。
ところで。
フランスは、日本文化が大好きですから、なにやら、またまたあたらしいスタイルを映画でかんがえていることでしょう。そんなクリップもありました。
私は毎朝目が覚めると生まれ変わっているの。1日だって同じような日はないわ
ブリジット・バルドー
7億7,600万人が文字を読めない-世界の識字率
7億7,600万人が文字を読めない-世界の識字率
2011年10月29日 Posted in 教育
世界では、7,500万人の子どもたちが学校に通えず、
7億7,600万人の成人が読み書きができないと言われています。
この数字をみて、どんなことを思いましたか?
本や新聞を読んで新しいことを知る。
道路標識を見て行く先を考える。
手紙で遠くの人に思いを伝える。
お釣りの計算をする。
これら、わたしたちにとってあたりまえの日常生活で必要な
「読み・書き・計算」ができる能力のことを「識字」と言います。
逆に「読めない・書けない・計算できない」人のことを「非識字者」と呼びます。
文字が読み書きできない原因と問題点について考えてみましょう。
識字率が高いアジアと低いアフリカ
現在、成人の5人に1人に あたる7億7,600万人の人々は読み書きができないと言われており、その3分の2は女性です。読み書きができないと、必要な情報を手に入れることができず不利益を被るばかりか、意思や要求を書面で伝えられず社会的な権利が大幅に制約されます。本人ばかりでなく、国や地域の発展にとっても不利益になります。
では、どんな国が識字率が高く、低い国はどんな国なのでしょうか?
【アフリカ】【アジア】
マリ23.3%アフガニスタン28.0%
ブルキナファソ28.7%パキスタン54.9%
ギニア29.5%ネパール56.5%
エチオピア35.9%インド66.0%
コートジボワール48.7%ラオス73.2%
出所:総務省統計局発行「世界の統計2009」 「15-6 男女別識字率」
アフリカの国々は全体的に識字率が低く、アジアを見てもアフガニスタンはとても低くなっています。
IT産業の発展著しいインドでさえ、66.0%です。地図で見たい方は「成人の識字率の世界地図」をご覧ください。
文字が読めない理由
なぜ読み書きができない人、非識字者が多いのでしょうか。
1)学校へ通うべき年齢で教育を受けることができない
国によって教育予算が少なく、授業料が無料ではない国が多くあります。貧困家庭の子どもたちや孤児は、学費を払えず、学用品を買うお金がなかったり、家計を助けるために働かなくてはならないなどの理由から、学校に通うことができない傾向にあります。また、学校の教育の質が低いため「学校に通わせる意味がない」と親が考え、通わせないケースもあります。もちろん、子どもが働かされる理由はもっとあります。
「児童労働」について詳しくはコチラ >> 児童労働とは|世界の子どもを児童労働から守るNGO ACE(エース)
2)近くに学校がないから
2000年以降、14の国で小学校の授業料が無料化され、生徒数が増えました。しかし、増えた生徒数に勉強を教えられるだけの学校がありません。交通手段が発達していない地域で、もっとも近い学校が何十キロも離れていたり、雨季に道路が冠水したり、通学そのものが困難な状況も多々あります。
3)「女の子は学校に通う必要がない」と言われたから
途上国では、男の子の教育にお金を使う傾向があります。女の子は学校へ通えたとしても学校で性的嫌がらせを受けたり、女性用トイレがなかったり、早すぎる結婚、女性教員が少ないなどの理由で学校へ通わなくなってしまうことが多々あります。そのため、世界の非識字者の3分の2が女性だと言われています。
4)先生の人数が足りないから
カンボジアでは一人の教師が50人の生徒を、モザンビークでは67人の生徒を教えています。教員の多くは一般的な公務員より安い賃金で働き、病欠中の賃金や年金などの保証もないため、教員の無断欠勤や人数の減少がおきています。2006年にザンビアのNGOが試算したところ、一世帯あたりに必要な生活費410ドル/月に対し、教員の平均給与は191ドル/月でした。タンザニアでは、2000年から2002年の間に教員の42%がエイズ関連で死亡しました。
5)家で話す言葉と学校で教わる言葉が違う
少数民族が通う場所への学校建設を後回しにする国もあります。少数民族の言語での授業を認めなかったり、現地語を理解する教師が不足していることも多くあります。家で話す言葉と学校で教わる言葉が違うため、勉強についていけない生徒は自然と学校から離れて行きます。
それほど昔ではない幕末の日本は、世界的に識字率が高かったようですが、それでも女子の識字率は21%です。
幕末期に来日した西欧人達が日本の識字率の高さに驚いたことは複数の文献で伝えられている。幕末期(1854-61年頃)の江戸 の識字率は男子が79%、女子が21%で、武士は殆ど100%読め、農村の僻地でも20%は読めたという。これは当時の世界の中では群を抜いていた。明治 になり福沢諭吉は「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。出所:江戸の識字率
自然と食事量を減らすコツは?パリジェンヌから学ぶ「腹八分目」の見極め方
フランスの女性は、なぜスリム?こんにちは、フードデザイニストの笹生暁美です。 パリの街を颯爽と歩いているパリジャンヌ。フランス人女性は、スリムな人が多い印象があります。 WHOの肥満率のデータを見ても、肥満が社会的問題になっているアメリカ人女性の34.3%に比較して、フランスは17.6%と確かに低くなっています。 フランス料理は、高カロリーなのに!けれどもフランスの食事は、濃厚なチーズにワイン、バターたっぷりのクロワッサンに甘いスイーツ。また、パテなどのお肉類もしっかり食べています。日本のようにヘルシーな食材が多い食生活ではないのに、なぜスリムなのでしょう?スリムの秘訣は、食事を終わりにする判断基準にあり!フランス人女性は、内側の要求に従って食事を終わりにします。お腹が満たされたら、食べる事を止めます。 「腹八分で食事を終わらせている」、それがスリムの大きな理由です。「それだけ?」と拍子抜けするほど、とてもシンプルな理由ですね。しかし、思い出してみてください。腹八分で食事を終わらせるのが、いかに難しいかということを。 お腹がいっぱいでも、お皿に残ったおかずは、もったいないと食べてしまいませんか?レストランでの食事。最後のデザートが出てくる頃は、お腹も満たされています。けれども、「デザートは別腹ね」と言って食べてしまいます。 食事を終わらせるキッカケを調査フードサイコロジストのブライアン博士は、「本当にフランスの女性は、満たされたら食事をやめるのか?」を調査する為に、パリの女性とシカゴの女性282人を対象に「あなたはいつ食事を終わりにしますか?」というアンケートを取りました。 パリの女性で多かった回答は、「空腹を感じなくなった時点」その結果、やはりパリの女性は、空腹を感じなくなった時点で食事を終わらせる人が多かったのです。 体重が重い人は、外的要因によって食事を終わりにすることが判明一方、シカゴは違いました。彼女達は、「お皿が空になったら」、「飲みものがなくなったら」、「見ているテレビが終わる時」と答えています。ただ、どちらの国も体重が多い人ほど、食事を終わりにする判断を、外的要因によって決めていました。お腹がいっぱいでも、見ている番組が終わるまで食べ続けるのですから、食べ過ぎでしまいますね。腹八分で食事を終わらせるコツ!
三島由紀夫とワーグナー メランコリアの憂鬱
映画はまとめて、見る時間がなかなか、とれませんので、細切れ視聴しております。
だいたい、一日に、長くても30分。短い時は、10分くらいで、きりあげます。
もちろん、クライマックスにはいると、一気に見てしまいますが、それまでは、
のんびりと、原作を書架からとりだして、少し眺めてみたり、資料を見たり、
見た時のさまざまなる空気を思い出すようにしております。
新作は別として、昔の作品を再視聴することが圧倒的に多いです。
個人的には、今の新作は、10作中、感動するのは、1作。
かつての名作は、(時間が摩擦をかけていますので、当たり前ではありますが)、10作中、10作が、そのまま感動の渦に巻き込んでくれます。これは時間がない私にとっては、ありがたいと思います。
本や音楽も同じですね。
新作は、どうもあたりはずれが、多すぎて、時間がもったいないと考えてしまいます。
個人的に好きな作家は、駄作であろうと、なんであろうと、自分の金で買って、大切に読むということはいつも同じですが。
さて、「地球最後の日々」。
最近の世界の天候やら、情勢などを見ていると、いよいよ、その日が来るかと思ってしまいますが、シネマの世界でも、まさに、暗示のように、たくさんのその手の映画があります。
その中で、自分の魂の中に、入っているのは、まず、「渚にて」。
それから、アルマゲドンのような、人類愛のシネマは大好きなのですが、最後がハッピーエンドというのは、のぞくと、あと、この「メランコリア」というシネマは、心に残ります。
商売だけのシネマではなく、台詞などや、俳優の振り付けや、演技などなど、監督の独特の、
采配が興味深いです。
特に、音楽の使い方。
ワーグナー。
私もブック・オフで、安くレコードを手に入れましたが、トリスタンとイゾルテでしたか、
聞く人の耳にこびりついて離れませんね。
三島由紀夫氏やら、宮崎駿氏もまたファンでしたが。猛烈にたまに聞きたくなります。
この映画のなかで、川の中を静かに、遺体のようにして流れていく花嫁。
まるで西洋の名画のようでした。
私は、漫画から普通、愛と希望をもらっているし、小説や俳句や詩からは日本語の言葉の味を楽しみ、西洋のそれとの比較をさらに楽しみ、音楽からは魂の充電をさせていただいています。
では、映画ってなんでしょうか?
総合芸術とよく言われますが、漫画や小説やオリジナルシナリオから、たちあがって、音楽やら言葉やら舞踊やらカメラワークやら、たくさんの人達が集まっては、ひとつの美をつくりあげる。
メランコリア。
この題名が、また実に美しい。
題名に惹かれて、見てしまいましたが。
内容は、地球最後の日々。
というわけで、ストーリーがどうたらというよりも、監督やその仲間たちが、この究極の日々をどうカメラに収めるのかということが興味あり。
まったくの脳と心をリセットして、まっさらで、見ました。
ネットで情報を見たのは、見たあと。
賛美と失望の半々。
なんといっても、ワーグナーのトリスタンとイゾルデでしたか。
デンマーク映画なのに。
三島由紀夫氏やら、澁澤龍彦氏が生きていたら喜びそうなカット満載。
そして三島由紀夫氏の好きなワグナー。この曲は「憂国」で使用されていたような記憶ありましたが、はっきり覚えておりません。おそらく、そうだったでしょうか。
しかし、それにしても、存在感のある女優。
きれいなだけの最近の女達とはひと味もふた味も違う。
お姉さん役もまた良かったが。
この映画が、ふたりの女性の名前で、ふたつに分けられているのも私の好みだ。
ジャスティン
クレア
そして、男の子のあどけなさが、心に残る。
映画「渚にて」のように、家族が死についていろいろ考えるシーン。
ここは、どのような死に方が良いかどうかという問題はさておき、ジャスティンのような鬱病の患者が、魔法のシェルターを子供のためにつくるというのもなかなか。
映画のアイディアは、鬱病に苦しんでいた頃のラース・フォン・トリアーが出席したセラピー・セッションから来ている。セラピストは、鬱病の人々は先に悪いことが起こると予想し、強いプレッシャーの下でもっと冷静に他のものよりも行動する傾向があることをトリアーに伝えていた。
と、資料にはあるけれども、ラース・フォン・トリアー監督。
さすがに、あのビョークを撮った監督。
あの映画もまた心に不思議に残像がいつまでも残る映画でしたが。
冷たく、不安で、まさにメランコリアな画像をとりあげた。
こんな映画があってもいいでしょう。
人に勇気も希望もあたえない代わりに、美的感銘を少しだけ差し出すという映画。
心の病にかかる人に、少し特権を与えるような不思議な映像。
この救いのまったくない映画を見て、元気が出たというレヴューを見て、人間てなんと多様性があり、複雑でまた、おもしろい生物だなあと再認識。
私の好み。
あの、「惑星ソラリス」をこの監督はきっと好きに違いない。
重厚なクラシックにのせての、ブリューゲルの絵。これまったく同じ絵。
あとは、ラファエロ前派も好きに違いない。
水の中をながれていく花嫁。これは「オフェーリア」からイメージをきっと、とったのだろうと思う。
同じイメージ。
「盲目の少女」の絵もふとこの映画に重なる。
黒い馬が実に、「メランコリア」という映画には合う。
最低からはじめる・・・・「愛」「夜行列車」アン・ハサウ「ゲット・スマート」「ハート・ロッカー」
自分が最低だと
思っていればいいのよ。
一番劣ると
思っていればいいの。
そしたらね、
みんなの言っていることが
ちゃんと頭に入ってくる。
自分が偉いと思っていると、
他人は何も言ってくれない。
そしたらダメなんだよ。
てめぇが一番バカになればいいの。 赤塚不二夫
変な時代になったものだと思う。
なにかにつけて、すぐに、短絡的に、レッテルを貼る。
なんでも、かんでも、一般論で、ひとくくり!!!!
ひとりひとり、個々に、微妙なる「気配」などがあるだろうに・・・
しかも、現代は、すぐに、人を殺めたりも輩がいたりするので、始末が悪く、ますます、言葉嫌悪が
一人歩きする。
世界の偉人と言われる人は、私は伝記が好きなのでよく読むけれども、ほとんどが、
母親への愛情をバネにして、偉大な業績を残している。
少しでも、本を読んでいる人ならば、
今の現代、あざけるようにして、「マザコン」という言葉を乱用しているが、
子どもが真摯に持ちつづけるモチベーションの源としての母への愛と、マザコンは、あきらかに、違うだろうに。
それが、まったく混同されて、気持ち悪いの一言で片付けようとする短絡的若者女性。
もちろん、その逆も。
父への愛は、当然であるし、娘が娘として、きちんと成長するのに必須な父親への愛も、
ふざけた話し、吉本漫才よろしく、すぐに、「あんた、ファザコン」じゃあないの、とくる。
・・・・・・・・・・・
「ストーカー」という言葉がある。
警察に相談しても、警察は事件が起きてからではないと対処できないとか、アホなことばかりぬかすので、結局のところ、若き女性が、被害にあって、最悪殺されてしまう。
しかしながら。
なにやら、「言葉」が足りない・・・・・最近つくづく、そう思う。
男にも、女にも、「言ってはならない言葉」
「一線を超えてはならない言葉」というものが、あることは、知りたいものだ。
・・・・・・・・・・・
異性にアプローチするのならば、言葉が必須。
しないのならば、良い意味での、秘する花、・・・・・・・・つまり片思いに徹する。
そこの割り切りが肝心。
男は、言葉が下手。
女は、口が上手。これは、小さな子どもを見ればよくわかると思う。
だから、男子は、ライバルに勝つためには、言葉以外の方法をとることも多いのだ。
そして。
秘する花もあるのだ。自分の気持ちを相手に伝えない美学。
そこから、悲劇は生まれるかもしれない。
あるいは、その覚悟が、伝わって、愛が成就するかもしれない。
・・・・・・・・・・・
しかし。
誰にもその結果はわからない。
「愛」
加治一生の「愛」という作品がある。
三島由紀夫が愛した平田弘史の、ペンネームで、生涯二作しかない。
この作品と、あとは、「愛憎必殺剣」。
おもしろいのは、石森章太郎にも似た作品があり、
父の仇をうつために、30年以上苦労に苦労を重ねた主人公が、
とうとう、父の仇を見つけて、討つのだが、
石森章太郎は、そこで、近くに現場を見ていたかつての自分と同じ年回りの子どもを見つけて、
その子どもを泣きながら殺すという作品。
平田弘史の「愛憎必殺剣」は、まったく同じ設定で、やっと父の仇を討ったあとに、彼の子どもを見つけて、自らが割腹して、果てるという筋書きとなっていて、興味深い。
貧乏な浪人の子ども。
一目惚れした、女子が好きで好きでたまらない。
まちぶせしては、愛の告白をするが、剣の達人の娘のこと、簡単には、こころを許さない。
主人公は、その美しい娘を自分の嫁にするべく、剣の達人の道場へと、導かれるようにして、入門する。
もちろん、指一本彼女には触れないという父親との約束のうえで・・・・・・
時ははやいものが、あっというまに、10年がたち、剣の達人であるところの父親は、道場の権利を譲りたい、しかも、娘を嫁にしてもらうとの条件で、ふたりの剣士を選択する。
さきほどの主人公と、ライバルの剣士である。
まさに、夢にまで見た、嬉しい話し。
なにがなんでも、相手に勝って、彼女と結ばれたい、そう願う彼であったが、
主人公は、とある日、すでに、ライバルと、彼女が、できていたことに気づく。
しかも、子どもまで孕んでいる。
悩んだ。
悩んだ。
苦しみ抜く。
荒れる。
荒れる。
酒を飲み、周囲に乱暴を働く。
酒。
酒。
酒。
酒が、何か一点の「覚悟」に収斂するための、儀式であるかのように。
・・・・・・・・・・・・
そして、試合当日。
木刀での、判定では、父親から負けと言われたものの、真剣勝負を提案し、
ライバルと、勝負することにする。
・・・・・・・・・・・
そして、彼が愛する彼女をどうしても欲しいがために、血のでるような苦労の末に編み出した秘剣を使って、ライバルを撃ち殺す寸前で、止める。
「松風、わたしの秘太刀・・・おぼえておられい」
「幸せにくらせ、愛する千枝殿とな」と、みずから、切腹をする。・・・・・・・・
たかが、マンガ。
されど、マンガ。
直木賞や芥川賞を獲っても、その後、まったく作品が書けないで、消えて行く作家達。
せいぜい、テレビのバラエティやクイズ番組で、土方よろしく、小金を稼ぐしかない作家達。
それから比較すると、アイデアから、ネーミング、そして、コマ割りから、構図、ペン入れから、墨、アミ、そして、修正。徹夜を繰り返して、一ヶ月に、300枚ほども描く、まさに命をけずって、描くマンガ家たち。
どちらが良いかどうかは、ともかく。
小銭をもらっては、銀座で飲んでいるきどった自称作家達よりは、家で、あんぱんをカジりながら、子ども達を笑わせようと、びっくりさせようと、ひたすら原稿用紙に向う、漫画家達が、私は好きだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひとりで考え、
ひとりで素晴らしい作品を
生み出す人なんて
そんなにいやしないよ。
天才には必ず
その天分を引き出す人間がいて、
そいつのほうがもっとずっと
天才だったりするんだ。 赤塚不二夫
男どうしにも、ベッドはともにしないまでも、好き嫌いはある。
なにか可愛くて、(可哀想と同義)、何かしてあげたい奴はいるものだ。
赤塚不二夫。
最初の頃、トキワ荘の頃、まったくマンガが書けずに悩んでいた。
そのときに、「アイデアが多すぎるから、もっとシンプルに」とアドバイスしてくれた先輩の漫画家、寺田さん。
赤塚に、金をかしてくれたりもした。
もちろん、飯を食う金もない赤塚に、飯も食わせてくれる。
石森もまた、赤塚に、タダで映画を一緒に連れて行ってくれたり、飯をおごってあけだりもした。
赤塚の最初のデヴュー作ともいうべき「ナマちゃん」(これは私は持っていたけれども、売り払ってしまった・・・・今思うと残念)。
これまた、石森章太郎が、出版社がギャクマンガを描ける人はいないかというときに、赤塚を紹介している。
これで、赤塚の作品が、晴れて、印刷されることになる。
赤塚は、漫画家を止めて、ボーイにでもなろうかと決めていたので、これら、友達のアドバイスや、面倒を見てくれたこと、紹介などは、まさに彼の人生を決めたと言っても過言ではない。
タモリがまだ売れないころ、マスコミにさほど知られていない頃に、彼の天才を発見して、自分の家に居候させ、面倒を見、好き放題に暮らせたあげたというのも、この頃の、赤塚の思い出、自分が友人から助けられたことと、無縁ではないと思う。
タモリは、このクリップのなかで、生まれてはじめて「ありがとう」と言っている。泣ける。
・・・・・・・・・・・・
人は、ひとりでは生きて行けないし。
成功は、しばしば、本人の才能や努力を超えて、他人が発見し、また、他人がそのチャンスをもってきてくれるものするものでもある。
それも、それを狙って、友達をつくるのでは、機会はもらえるものではない。
純粋無垢に、その仕事が好きで好きで、必死に頑張っていることが基本にあると思う。
それなのに、成功しない、売れない、・・・・・悩んでいる・・・・・そこに、手がさしのべられるのである。
それは、なにやら、その影に神様の力が働いているかのようだ。
三島由紀夫は、「赤塚不二夫みたいに読者から愛されていることに」かなり、羨ましいとも描いている。・・・・・・・・
やはり、作家。それぞれの、道。それぞれの、個性。それぞれの、魂なのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、立原正秋は、好きな作家だ。三島由紀夫とはまったく違う、美の宇宙を、バッハを聞きながら、描き分ける。
散歩をしては、アイデアが浮かぶと、家に走りもどっては、原稿用紙に向ったという。
吉行淳之介と比較すると、やや渋みに欠けるけれども、どの作品も、ひきこまれる。
恋愛は常に不意打ちの形をとる。 立原正秋
立原正秋氏の小説など読んでいても実に主人公の男がもてて、ふらりと入った居酒屋のママと洒落た会話をしながら酒とつまみなどを味わうシーンがでてきますね。映画でもママが良いとシーンに飲めりこんでいきます。
私は、彼の小説では、そんなスナックや、居酒屋でのシーンが大好きです。★画像をクリックすると大きくなります★
漫画ではどうでしょうか?
しかも、ブラックで辛口の、しかも線が太くてちっとも洒落てはいない画風の藤子不二雄氏だとすると・・・・
それがそれが、他の笑うセールスマンとは違ってこの「夜行列車」だけは最後のラストシーンでさほどのオチがないのですね。
しがないサラリーマンを絵に描いたような(漫画ですね、この男性昔の私がいた職場の上司にそっくり。それで感情が移入がしやすかったのかもしれませんね。笑い)男の主人公が、笑うセールスマンに「ふらりと夜行列車に乗って旅をしてみたい、そしてそのふらりと降りた小さな街の居酒屋にはきれいなママがいて、お酌をしてくれる・・・なんて話があるはずがない・・・」とか思っているのですが、実際に夜行列車いいもんだなあ、とカチカチのまじめなサラリーマンはどきどきしながら居酒屋の扉を開けるんですね。
そこには、きれいなママがいるはずはないじゃあないか・・・でもいいか。そんなふうに入った彼の目の前には・・・というふうにしてこの漫画は実に癒されますね。
しかも、そのママがきれいなだけではなくて、優しくて、二階にまで泊めてくれて。
まるで男の夢物語そのものですね。
そして男はそこにいつくようになり、そのまま夢は続くと思いきや。
笑うセールスマン、喪黒福造が「すみつくならすみつくで、一度家に電話してみたら」とテレフォンカードをおとこに渡すんですね。
すると、娘が出て・・・ママが倒れたと。
慌てて、結局男はふらふらとまた実家にもどるのですが、その夜行列車の窓からその居酒屋のママの姿が見えるんですね。いやあ、性格の良いママでしたね。
しがないサラリーマンの彼は涙目で「しばらくのあいだ、楽しい夢を見させてくれてありがとう」、そう言って、さようならと言うんですね。
いいですねえ。
やっぱりなんだかんだ言ってもそこでは暮らせないことわかっているのですが、二枚目の人生というような役を人生で一度はできたということで満足したことでしょうね。笑い。
最後に喪黒氏が、ママのところでかわりにお酒を飲んできましょうというオチがまた、不思議な神秘ゾーンの所在をイメージさせてなかなか渋い終わり方でした。
この藤子氏の漫画、実に人生の庶民の心をつかんで描いていますね。今の小説家ではこんな才がある人はいないでしょう。
「漫画家になれないから、小説家になった」という人はたくさんいますよ。
それだけ、絵を描くのはむづかしいということです。
うさぎどんと きつねどん ジョーエル・チャンドラー・ハリス著 ネンツィオーニ絵
むかしあるところにうさぎどんときつねどんがいました。
ある日、きつねどんは森をかけめぐりタールを集めると松やにとまぜあわせて人形をつくりました。
きつねどんは人形を道の端にすわらせこっそり草むらへ。
「おや、あんなところにだれかいるぞ」
うさぎどんは、かけより人形に声をかけました。
「やあおはよう、いい天気だね」
ところがタール人形は何もいいません・・・
うさぎどんは首をかしげるばかり。
「ふふふふふ、タールと松やにの人形がものをいうわけないじゃあないか。うさぎどんはかしこいようでも、まぬけだねえ」
「ぼうしを脱いでおれさまにあいさつができないのなら、ぶんなぐってやる」
ところがげんこつがくっついてとれなくなってしまいました。
「ややっ、これはこまったぞ」
「やい、はなせったらはなせ! いうことをきかないのなら、けっとばしてぺちゃんこにしてやるぞ、そーれ」
こんどは足までくっついてしまいました。
「よーし、こうなったらもうづつきをくらわしてやるぞ」
うさぎどんがタール人形にづつきをくらわすとさあ大変、頭までくっついてしまいました。
そこに草むらに隠れていたきつねどんが、あらわれて「やあ、うさぎどん。朝からとんださいなんだねえ。かしこいうさぎどんらしくもない、どじなことをやっているじゃあないか、これは愉快だ」
きつねどんはころげまわって笑い続けます。
それから幾日かたち、タールをからだからとりおえたうさぎどんは、メドウスさんの家に遊びにいきました。
「まあ、いらっしゃい。このあいだは、きつねどんがつくったタール人形と、とっくみあいをして、ひどいめにあったそうね」
メドウスさんやむすめさんたちが、くすくす笑いながらいいました。
「きつねどんが自慢してあちこちにふれまわっているらしいわよ」
うさぎどんはすこしかっとしましたが、すずしい顔で、「ちょっとおしゃべりさせてください。そのまえにこのお花をどうぞ」
メドウスさんに森でつんできた花をプレゼントしました。
そして、こんな話をはじめました。
「みなさんはわたしがきつねどんにだまされたので、わらいものにしたいのでしょう。しかし、きつねどんはいまでこそ、えらそうな顔をしていますが、じつは長いあいだわたしの父が馬代わりにきつねどんに乗っていたのですよ」
「まあ、ほんとうかしら」
「しょうこは明日にでもおみせしますね」
つぎの日。
きつねどんがメドウス家に行って、どんなにうさぎどんがまぬけかをしゃべりだすと、メドウスさんとむすめたちは、「でも、きつねどんは長い事、うさぎどんのお父さんの馬がわりだったそうね、うさぎどんから聞いたわよ」
きつねどんは、「でたらめにもほどがある、ぜったいにゆるすもんか」
うさぎどんの家にかっかっしながら向かいます。
「うさぎどん、おいらだよ。」
けれども、うさぎどんにはきつねどんがおしかけてくることがはじめからわかっていました。
考えがあってわざとおこらせたのですね。
うさぎどんはドアにかぎをかけてしばらくのあいだ、じっとしていましたが、弱々しい声でこういいました。
「きつねどん、いいところにきてくれた。けさ食べたパセリでおなかをこわしてしまったので、いたくてしょうがない。わるいけどおいしゃさんをよんできてくれないだろうか、お願いだよ」
「なにをいっているんだ。はらいたくらいすぐなおるさ。じつはねすばらしい知らせをもったきたんだ」
きつねどんは懸命です。
「これからメドウスさんのところでパーティがあるんだ。むすめさんたちも、うさぎどんがこないとつまらないというのでおいらがよびにきたったわけさ」
「とても歩いてはいけないよ」
「おいらがだいて行ってやるよ。それならいいだろう」
きつねどんはにやりとしました。
「だけどおとされたら大けがをするからね。きつねどんの背中にのせていってくれないかなあ」
「いいとも、おやすい御用だよ。さあ」
きつねどんは背中をむけました。
けれども、うさぎどんにはきつねどんのたくらみがわかっていましたから、そのまま背中にのったりしません。
「くらがないとおしりがいたくなってしまう。それに、たづなもないととちゅうでふりおとされちゃう」
「なるほどそのとうりだ」
きつねどんはしかたなくくらとたづなを持ってきました。
「さあこれならいいだろう」
きつねどんは走りながらうさぎどんにたのみました。
「メドウスさんの家のちかくになったら、おりてくれよ。おしらがうさぎどんの馬がわりなんて思われたくないからね」
「うん、わかっているよ」
うさぎどんはそう言いながら、足にぎざぎさの金具をつけました。
メドウスさんの家にちかづいて、きつねどんがうさぎどんをおろそうとしたときです。
うさぎどんは金具で思い切り、きつねどんのわきばらをけりました。
おどろいたきつねどんはそのままどっどっと、メドウスさんの家の門の中まで走り込んでしまいました。
「はいどう、とまれ」
うさぎどんはぴょんととびおりると、きつねどんをさくにくくりつけてメドウスさんやむすめさんにむねをはっていいました。
「ほうら、きつねどんがまえから、馬がわりにのられていたことがこれでよくわかったでしょう」
この絵本の物語は、アメリカの1879年の当時のアメリカ南部で働く黒人たちの間で語り継がれた物語なんですねえ。
黒人のリーマスじいやが語るという形式で発表された一部の物語りですね。
弱いものが強いものを知恵とすばしこさでへこます痛快さは、イソップやフランスの「きつね物語り」にも共通するものがあります。
この1879年。チャイコフスキーモスクワ音楽院で上演、ガウディが登場し、エクトル・マロの「家なき児」、エジソンが発熱電球を発明した頃ですね。ベーベルの「婦人論」イプセンの「人形の家」など、女性の権利をめぐる議論がではじめた年でもあります。
しいたげられた黒人が子供にこういう読み聞かせをすることで我慢強く生活していったことを考えると、生きることはもう戦いですね。
絵本とはたんに優しき子供の読み物、寝物語だけなのではありませんね。
あと、私はこのうさぎどんときつねどんの絵が大好きです。
ネンツィオーネ氏というたぶんイタリア系の画家でしょうか。不思議の国のアリスばりのリアルではあるけれどもなんとも言えない表情で私たちを魅了してくれます。
松本人志は書いています。
「ほんとうのファンは、けっこうヒットチャートの一位よりも、四位くらいの曲が好き。でも、それはシングルカットされんかったりする。・・・」
そんな意味で、彼は、タケシのファンであるがゆえに、「菊次郎の夏」や、「hanabi」よりも、「キッズリターン」や、「ソナチネ」「その男凶暴につき」の方が好きだという。
好き。
これが一番の批評だと、私も思う。
人それぞれに、DNAが違うように、好みはまったく違う。
人がこの映画が良いと言っていたとか、キネマ旬報で一位だったとか、アカデミー賞をとったとか、なんであろうと、好きなものは好きだし、嫌いな映画は嫌いなものだ。
だから、映画は、自分の大切な映画があって、それは人がなんといおうと、自分のベストであり、自分のフェボリットなんだと思う。
アン・ハサウェイの「ゲット・スマート」見ました。
とあるように、アメリカのテレビコメディシリーズだったらしい。
とにかく、笑える。
最初は、007ものの、駄作かな・・・・・と、半分諦めながら見ていましたが、ところが・・しだいに、ジョークのツボみたいなものが、わかってくる。
キャッチコピーみたいなワンパターンの台詞もあり、
, "Missed it by that much!", なんかは、 「あと、ちょっとだった」 と、訳すらしい。
バタ臭い、アメリカ美女と、どこかコッケイな主人公マイクの失敗そして、成功。
笑えます。
アン・ハサウェイの今回のゲットスマート版。
それこそ、彼女のスマートで、かっこよいアクションが楽しめます。
アメリカのテレビ局は、日本のように、おのおののコメディアンやら芸能人が、芸能事務所を核として、好きに出ていますが、アメリカのテレビ局はそのようなシステムがないらしく、専属として、ケーブルテレビと契約しているらしいです。
ユーモアも、アメリカらしく、日本のようなボケと突っ込みなどはなく、独特のユーモアのセンス・・ボケだけで、成立していますし・・・。
とにかく、この時代。
とことん、笑えるだけの映画って貴重だと思う。・・・
見たあとのカタルシス感、最高。
「ハートロッカー」 見ました!!
イスラムという巨大な歴史・・
キリスト教とは同じ源であるのに。
調べれば調べるほどわからないことだらけ。
女性監督。
八ミリビデオで撮ったかのような、カメラのブレがまた不安感をあおる。
イラクの破壊された街角には、ぼろぼろの猫が歩いている。
びっこの猫がそれでも必死に生きている。
宇宙服のような防御服を来た戦闘員たちは、まるで、月を歩いている宇宙飛行士のようだ。
それだけ、イラクの街角は、異郷。
もともとはここにも平和と談笑と愛があったはずなのに・・・・・・。
開高健が言うところの、ひとつの本からひとつの言葉・・・・・・ということで言えば、この映画の一言は、「戦争は麻薬だ」という言葉だろう。
「戦争は麻薬だ」
ブラボー中隊が任務あけまで、あと、◎◎日・・・・・
ドキュメント手法で、描く・・・・・・・その緊張感。
おなかのなかに、爆発物を入れられた少年が殺され、彼をだきあげた米兵がしずかに歩いて行く・・・・・・このシネマの一番の哀しみのシーン。
うたれます。
しかしながら。
寝る前に見る映画ではないでしょう。夢にでてきます。
ああ、世界は、どこの国も、テロに、飢餓に、圧政に、地震と・・・・・・・・
常に死と隣り合わせ。
人類が誕生して、たしか、二億年でしたか。
ずっとそんな状況は変わりません。
それがわからないというのは、まさに平和ボケ、テレビの見過ぎ、ものを考えていない証拠でしょう。
坂口安吾が言うように、「生き抜く」ことだけが、生きる目的なのかもしれません。
いつのまにか、そんなことも忘れて、この一見スマートで、クールで、便利で、合理的な、世界に
だまされてしまいます。
いつも書いていますが、朝起きたら、
一度は、その日のうちに、ありとあらゆる自分の死をイメージして、それから深呼吸して、一日をスタートすることでしょう。
「葉隠れ」です。
だからこそ、生きることがなんと素晴しく、感謝の気持ちがわきあがってきます。
それに、何かの事故や災害に対する、適切なる判断力が生まれようというものです。
・・・・・・・・・・・・・・
ハート・ロッカー。
映画を見ながらそんなことをぼんやり、考えていました。
アラン・レネ。
やっぱり。
フェリーニやら、黒沢やら、ビィスコンティやら、このアラン・レネやら・・・
黒白が多いですが、
すっきりします。
魂が洗われるようです。
何回も見ています。
・・・・・・・・・・・・・・・・
◎資料
映画監督アラン・レネ 「夜と霧」で注目
AFP通信によると、フランス・ヌーベルバーグの先駆けとなった映画監督として知られるアラン・レネさんが1日、パリで死去した。91歳だった。
1922年、フランス生まれ。「ヴァン・ゴッホ」で49年、米アカデミー短編映画賞。ナチのユダヤ人虐殺を主題にしたドキュメンタリー「夜と霧」で注目される。59年、原爆の記憶が残る広島を舞台に、フランス人女優と日本人建築家の愛を描いた「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」で長編映画に進出。61年、「去年マリエンバートで」でベネチア国際映画祭の金獅子賞を受けた。
思索的で難解な作風で知られる。他の監督作に「薔薇のスタビスキー」「プロビデンス」など。晩年まで撮り続け、今年のベルリン国際映画祭では新作「ライフ・オブ・ライリー」でアルフレッド・バウアー賞を受けた。(パリ)
「クロイチェル・ソナタ」見ました。
以前から、どうしても見たいと探していました。
クロイツェル・ソナタ [DVD]/出演者不明
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ワイルドが書いているように、道徳的な書物というのはない。
道徳的に書かれているかどうかの問題。
この「クロイチェルソナタ」を聞いて、トルストイが書いているのは、嫉妬の恐ろしさだと思う。
禁欲的な愛を解いていると解説にはあるけれども、そうなんだろうか。
たしかに、音楽というものの悪魔的な覚せい剤にも似た魅惑は認めたとしても、疑問は残る。
いつも書いているけれども、音楽はマゾヒスト的な感覚であり、ディオニソスでもある。
それに比較すると彫刻などはサディズム的でもあり、アポロン的でもあると、言われるが、
三島由紀夫氏が音楽が非常に苦手であったというか、ワーグナーと黒猫のタンゴくらいしか知らなかったかもしれないというのは、冗談だけれども、文字の偏愛がすぎてしまうと、右脳が働かなくなるのかもしれないし、またあるいて、音楽のそのディオニソス性、とろけるような優美が、苦手だということなのかもしれない。
このへんはよくわからない。
最近のイタリア映画におけるこのトルストイの作品の映画化されたものを見る限りは、そのあたりはうまく描かれていると思う。
これは実話なのだろうか?
そのあたりもこんど暇な時に、調べてみよう。
この作品にかぎっては、小説のほうが、興味深い。
・・・・・・・・・・・・・・
またまた、好きな童話。
この絵本は、絶版です。
Ferrero,Elisabetta の 絵 が、素晴しいです。
先日「三びきのくま」という絵本について書きました時に、これはロシアの民話と書きました。
文章を書いている方がアイヌの民話のように変容させておりましたが、もともとのロシア民話を調べていましたら、トルストイがこの民話を書き直していましたね。
彼の偉大なる著作「戦争と平和」と、「アンナカレーニ」の間に、この「三びきのくま」が彼によって書かれています。
ネットにも出ていなかったのですが、この絵本のあとがきにてきちんと紹介されていました。
ヤースナヤ・ボリャーナに農民の子弟のために開いていた学校の教科書として「綴字教科書」を出し、それを1875年に「新綴字教科書」にあらためると同時に、「ロシア読本」全四巻も出しました。この絵本はその時期に作られた物語なのです。
この絵がいいですねえ。丸尾氏の絵まで私なぞ、連想してしまいましたから。笑い。
しみそばかすや、エメラルドグリーンの細かな表現が愛らしいです。
私の息子もこの絵本が大好きで昔よく読み聴かせをしたものです。懐かしい。
先日の絵本では、少女はアイヌの妖精チュプが演じていましたが、この原作では少女は少女です。
そして、お父さんお母さんがあきれるほどのおてんばさんで、くいしんぼうさんでした。
「あら、もう夏よ。森の野いちごがあまくうれているわ。わたし食べたい、どうしても食べるんだわ」
そんな言葉とともに、少女は森の中に入って行くのです。
そして、森をぬけたところでくまの家を見つけるのですね。
物語はチュプのそれと同じですが、最後はとにかく必死で少女は逃げ帰るという設定になっています。くまは何もしないのに・・・
くいしんぼうで、おてんばさん。
19世紀にもとうぜんこのような少女はいたわけですが、その彼女のオーラはいつも物語のモチーフになるのは不思議な気がします。
最後に、「暗くなるまで待って」を再視聴しました。
好きな映画は、くりかえしくりかえし、見る事にしています。
・・・・・・・・・・・・
英語を学ぶならば、映画が一番。
淀川さんは、映画を見ながら英語をすべてマスターしたのだった。
こんな楽しい勉強法があるだろうか?
それにしても、ヘプバーン、凛として美しい。
これがほんとうの清楚で、知性のある、美しさなんだろうと思う。
いわゆる天賦の才に
恵まれていると思ったことはないわ。
仕事を心から愛して
最善を尽くしただけよ。
Audrey Hepburn (オードリー・ヘップバーン)
FIN
「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」 淀川長
「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」 淀川長治
さすがに、人のなかにも好き嫌いはださずに、どんな人にもいいところがあると言われた、淀川さんらしい名言です。
今日はDVDを見たいとふと思い、
麦秋
ストーカー
ノスタルジア
ペルソナ
などは用意しているのですが、なかなか、部屋の片付けやら、絵画やら、コミックやら、父介護やらで、見れません。
私は目があまり良くないので、どんなことでものんびり、ゆっくり、猫のごとく歩む時間に添ってなにかを始めることが多いのですが、やはり、人はあきやすいです。
映画の私なりの魅力は、なんといっても、そこに美しい美男と美女がでてくることだと思います。
漫画のキャラクターもそのひとりの少女のキャラがたっていれば、ベストセラーになるように、シネマもやはりヒロインとヒーローの存在感がポイントだと思っております。
思えば、アンジェラ・カートライトという「宇宙家族ロビンソン」に出てくる妹役の女優を中学生の時に大好きになり、ファンクラブまで入って、次には、高校生の時にはスクリーンの愛読者となり、朝から晩まで映画のことを考えておりました。ファンクラブに入ったのは、「ロミオ&ジュリエット」のオリビア・ハッセーです。彼女は最後には布施明の奥様になられましたが、あのときの銀幕の彼女はほんとうに奇麗でしたね。
<アンジェラ・カートライト ●サウンドオブミュージックの頃の彼女>
月日がたち、風がながれ、雲が沸き立ち、私も今では、きれいだからと言って、ファンクラブに入るなんていうことはまったく考えられない脳髄になってしまいました。
すぐに人を好きになったあの時の自分がかわいいと思ってしまいます。笑えます。
今は、味のある女性が、男性が、好みのスターということになるでしょう。
オリビア・ハッセーが高峰秀子になり、アラン・ドロンがジャック・ニコルソンになりました。
卵焼きとハムが大好きだった、少年が、酒の味を覚えて、珍味がいいというようなもんでしょう。
<高峰さんは美人ですが、卵焼きではないでしょう>
<ジャック・ニコルソンの独特のアホな男臭さは最高です>
美人は3日であきる。これは名言ですネ。
それと比較すると、醜女の深情けともいいます。これも少しつらいですね。
まあ、普通の女性で、趣味があえば、幸せと言えるのではないでしょうか。
ご縁。こんなだだっぴろい、なゆた・あそうぎ・無量大数の宇宙の中で、しかも、銀河系の、端の端の太陽系の中のチッポケな、それでいて美しい水の惑星の、数億年の人類の歴史の中の、この平成の日本で出会うという奇跡的な、邂逅を考えれば、それはまちがいなく、仏陀の「ご縁」です。
まあ、私は宗教団体は嫌いですが、神様=宇宙の背後にある神秘なる存在は、信じておりますから。
そんなご縁で、私は今、「生かされて」こんなふうにブログで皆とcomunicationをはかっていられるのだという謙虚なる気持ちで生きていきたいなと思っております。
「ユーガッタメール」のメグ・ライアンなんかは、かなり素敵だと思いますね。トム・ハンクスもまたまた好きなもので、・・・・・・・・何回みたことか。あのラストシーンの素晴しさ。
黒沢の「生きる」は一度見たのですが、これは、録画したいなと思って借りました。
スピルバーグや、コッポラなどは、映画作りに悩んだ時は、黒沢の映画を見たというのですから、すごいですね。
「わが星の果てるまで」。
今読んでいる弘兼の短編ですが、テーマは、「生きる」と同じです。
ガンを宣告された多忙な社長。
家族のこともなにもかえりみず、ただひたすら仕事に仕事。
そしてある日。あと半年の命と友達の医者に言われてしまう。
そこで、彼は、有り金を持って、日本中を廻って三人のひと達に逢いに行く・・・
という話しです。
自分の心から好きなこと、魂がふるえるくらいの嬉しい体験・・それをしているうちに、ガンの進行が止まったり、あるいはまれに、小さくなったりすることはあるらしいです。
そのような記事をよく見ましたが、弘兼はそれをうまく作品にとりこんでおります。
「恋に落ちて」
アメリカの文化も最近、限界だとふと思っております。やはり、「恋におちて」を見たときに、歩きながらハンバーグを食べる国の美意識なんていうのはたいしたことないな、とは思いましたネ。
もちろんこれは監督の演出であり、ふたりの素敵な俳優の私生活とはまったく関係のないことですが、私は食べながら歩く男女はもちろん、道ばたでタバコを吸いながら歩く男女は美しいとは思わないですね。
日本人は人のあげ足とりが大好きだ。
自分では何もできないくせに人のことはいろいろ気になるのである。
黒沢さんが晩年になると、評論家たちがいろいろ、ぶーぶー、豚のように不満をいい始めたときにも、
淀川さんは『夢』(1990)を「日本映画史上最高の映画美術と申したい」と評し、『まあだだよ』(1993、遺作)には次のように語っております。
「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。
昔の人は、「美というものは、訓練して訓練して、得るものだ」ということを知っていたと思います。
現代人は、ただ本をたくさん読んで知識をつめば、美は得られると思っています。
とんだまちがいです。
<わかるなんてやさしいことだ。むずかしいのはすることだ。やってみせてごらん。美しいものものをつくってみな。できねえだろう、この馬鹿やろう。
ほら、コップでもピンと音がするだろう。叩けば音がするものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん 青山次郎>
これからまたまた、映画鑑賞記録つけていきます。
中森明菜 80年代アイドルを好きなのはダサイか?
中森明菜。
ちょうど、私が、30代くらいのころに、かなり人気があり、20代のファンに圧倒的に支持されていた。松田聖子も同世代だが、彼女は、単なるアイドル。
器用で、バランスがとれていて、芸能界でうまくやっていけるアイドル、それが松田聖子。
歌も、心に残るというよりも、楽しく、金持ちがディナーショーで楽しむようなリッチ感もある。
比較すると、中森明菜の変身ぶり。
少女そのものからはじまり、しだいに、女らしさがでてきて、つやっぽくなり、恋に破れてからは、凄みもでてきた。
アルコール依存症なんだろうか。
歌が好きで、好きで、苦しみながら、歌っている。アンバランスのアーチストというイメージがある。
実際の彼女を知っているわけではないので、あくまでも、イメージでの比較だが、極端にはずれてはいないと思う。
なにやら。
中森明菜の歌には、魂が感じられる。
そして、惹き込まれる。
勇気ももらえる。
ところで、ビックコミックスピリッツを読んでいたら、80年代アイドル特集の二回目として、特集を再度組んでいた。
今の若者特に男性は、その傾向があるのだろうと思う。
アグレッシブで、優秀で、キレイで、ハキハキ喋れて、バランスがとれていて、器用。
そんな美しいお姫様に、尽くすのが好きというマニアをのぞけば、普通の男性ならば、
もっと、普通のふつうの、女性にひかれるものだ。
そんな私の持論をテーマにした漫画があって嬉しくなった。
「スローモーションをもう一度」という漫画。
加納梨衣という作家、男か女かわからないが・・・・・・・・
中森明菜が好きだというのが、ダサいと思われるのが嫌で友達にはそれを内緒にしている
少年。
家のなかに、80年代のおもちゃやら、アイドルのポスターやら、ブロマイドやら、洋服をたくさんあつめて、自分も80年代アイドルになりきっている少女。(こちらもまた隠している)
着眼点が、なかなか、よろしい。
東京慕情
桃井かおり - たばこ止めないの
Bei Mir Bist Du Schön / Max Luxury (素敵なあなた)
‘O’Keeffe, Stettheimer, Torr, Zorach: Women Mode
だいたい、私は、前衛アートや、現代絵画やらは、その半分は、まやかしだと思っている。
古典の絵の素晴しさは、「祈り」を感じるからだ。
人間存在の根本である、「something great 」が感じられるから、古典絵画は
見ていてあきない。
前衛絵画やインスタレーションは、刺激。脳の刺激、インスピ、ヒント。
そして、今の時代の心の反映。祈りのない時代。神を信じない時代の。
ただ、それは、それらの現代の前衛作品が投機の対象として取引されていること自体が私は、あまり好きではない。
芸術家ではなくて経営者??
現代絵画などの不満を少し言ってしまったが、見るのはもちろん好きだ。軽いけれども。(漫画の方が、レベルが高いと思う私でもある)
しかし、オキーフなんかも、数冊気がつくと画集を買ってしまう。(画集だけで1000冊はあるかもしれない)
しかし、このHelen Torr’s ‘Purple and Green Leaves’ (1927).PHOTO: TERRA FOUNDATION FOR AMERICAN ART
は、初めて見た。
画集もまだ持っていない。
Helen Torr’s、覚えておこう。
絵は謎でなければならない。
‘O’Keeffe, Stettheimer, Torr, Zorach: Women Modernists in New York’ Review
An exhibition, premised on the view that gender limited the careers of these four artists, hopes to raise their profiles.
By JUDITH H. DOBRZYNSKI
Aug. 24, 2016 5:10 p.m. ET
West Palm Beach, Fla., and Portland, Maine
Why devote an exhibition to “women” modernists? For centuries, female artists have fought to be taken seriously as just “artists,” without any modifier that could be seen as limiting. “O’Keeffe, Stettheimer, Torr, Zorach: Women Modernists in New York,” organized by the Norton Museum of Art in West Palm Beach, Fla., and now on view at the Portland Museum of Art in Maine, is premised on the view that gender limited the careers of these four—deemed “some of the most significant modernists in American history”—and attempts to provide the exposure that might lift them into the Western art canon.
Helen Torr’s ‘Purple and Green Leaves’ (1927). ENLARGE
Helen Torr’s ‘Purple and Green Leaves’ (1927). PHOTO: TERRA FOUNDATION FOR AMERICAN ART
The show presents about 60 works, dated 1910 through 1935, when the rise of modernism gave artists license to experiment with new styles and vocabularies. Florine Stettheimer (1871-1944), Helen Torr (1886-1967), Marguerite Zorach (1887-1968) and Georgia O’Keeffe (1887-1986) knew one another, lived for a time in the same city, had overlapping careers and faced many of the same obstacles as other women of their day.
But the exhibition doesn’t quite work as advertised or intended. The talents and personal situations of the four vary vastly, and that affected their reputations as much as the prejudices held against them. And all difficulties aside, O’Keeffe is today a household name, while Stettheimer’s reputation has been rising ever since her 1995 retrospective at the Whitney Museum. The other two are known mainly within the art world, partly because of their own choices.
So showing these four together doesn’t illuminate much about art history. At the Norton, after an introductory gallery, each artist was showcased in her own gallery, providing little incentive for viewers to compare and contrast. Portland, working in a different space, reshuffled the works thematically—juxtaposing domestic scenes by all four, floral scenes, landscapes and the like to show the many faces of modernism—but that didn’t help. O’Keeffe and Torr explored similar ground, but it was Torr’s brilliant husband, Arthur Dove, who maintained a dialogue with O’Keeffe that led to their imaginative, lyrical strain of modernism. Ellen E. Roberts, the Norton curator who originated the exhibition, sees Torr as a partner in that exchange—but there is little documentation to back her up. Meanwhile, Stettheimer forged her own, very idiosyncratic style, and the talented Zorach seems more in sync with French colleagues.
Zorach, having moved to Paris in 1908, when Fauvism was all the rage, was among the first Americans to experiment with its bold colors and forms. Here “Les Baux” (1910) captures the drama of a landscape rather than its precise features. In “Untitled” (c. 1913) she turns abstract circles, diagonal rays and tree trunks into an enchanted forest. “Provincetown, Sunrise and Moonset” (1916) is a resplendent mix of Expressionism, Cubism and Futurism. She also painted daring nudes and flat, patterned figurative works.
But Zorach had not devised a singular style when, two years after paintings by her in the 1913 Armory Show were noted for their “extreme modernity,” she started a family. With little time to paint—and putting the career of her artist husband, William, first—she turned to embroidery and other textile arts. They are worthy and, this exhibition declares, a contribution to modernism. But they are still mostly viewed by art historians as women’s art. What Zorach might have accomplished, had she not curtailed her painting, is unknowable, making it hard to accept the exhibition’s bullish claim for her.
Torr might not have had a career at all were it not for Dove, who worked side by side with her on their houseboat and boosted her confidence. Their work—meditations on the natural world—is similar, though Torr is a bit more figurative than her husband, as seen in “Oyster Stakes” (1930), which shows two markers in a sea whose waves mimic the clouds. If only she had created more works like “Purple and Green Leaves” (1927), an oil abstraction painted on copper that shimmers with luminosity.
Stettheimer is the most eccentric of this group. Independently wealthy, she never married but still resented the social obligations that stole time from her painting. Her humorous, flowing style played with perspective, mixed bright colors with unexpected pastels, and sometimes referred to other artists. “Jenny and Genevieve” (c. 1915) portrays a bored woman moping at a table and attended by a black maid—a nod to Manet’s “Olympia” set in a decorative background worthy of Matisse.
She is most appreciated for her witty narratives, like “Picnic at Bedford Hills” (1918), which depicts her and her sisters sprawling on a yellow lawn—parasols askew—attended by Marcel Duchamp and the sculptor Elie Nadelman. In “Spring Sale at Bendel’s” (1921), she satirizes upper-middle-class shoppers, who vie for bargains, practically leaping over one another. Always, her details—a fat chicken, the veiled hats—are delicious.
O’Keeffe’s works offer the fewest revelations—just a well-chosen array of flower, cityscape, landscape and skull paintings, plus a charcoal drawing, “Special No. 39” (1919), that was among those prompting Alfred Stieglitz, later her husband, to say “Finally a woman on paper.” As the most important modern dealer of his day, he gave her entrée to the art world.
Yet it’s worth noting that O’Keeffe, who has secured a place in art history, most clearly fought back against the gender stereotypes imposed on her by art critics. She freed herself to concentrate on art by moving to New Mexico, away from them. Stettheimer held herself back, hesitating to exhibit her work, and until recently paid a price for that reticence. This exhibition will reinforce her rise. Zorach and Torr, both products of their era, seem likely to remain minor figures in the canon, even after this new exposure. Despite the array of interesting, even fascinating, paintings here, the history of American modernism remains unchanged.
Archie Shepp - Hipnosis
◎この手のjazzが一番好きだ。
原始的で、無意識的で、(むろん意識的からはじまっているのだが)、
手探りで、自分たちのルーツをまざくっているからのような、パッションの激しさ。
アリス・コルトレーンや、サンラや、コルトレーンや、アイラーなどと同じような
生命力を感じて、眠気が飛ぶ。
◎資料
アメリカ合衆国のジャズ、フリー・ジャズ・ミュージシャン、サックス奏者である。フロリダ州出身。ジョン・コルトレーン、ホレス・パーラン、ニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴ、セシル・テイラーらとの共演でも知られる。アフリカ音楽に影響を受けたフリー・ジャズの代表的なミュージシャンである。
フェリックスとローラ 映画を見てひとこと・・・天才ルコントとバーキン母娘
◎物語ヒント
「髪結いの亭主」「橋の上の娘」のパトリス・ルコント監督が、移動遊園地を舞台に、愛を恐れ孤独に生きるひとりの女と彼女を一途に愛する純真な独身男の屈折した関係をミステリアスかつ静かなタッチで描いた愛の物語。主演はシャルロット・ゲンズブールと「今日から始まる」のフィリップ・トレトン。
フェリックスは移動遊園地のオーナー。彼女こそいないものの仲間からも慕われる陽気で気のいい男。毎日バンパー・カーのチケット売り場に座り、楽しげに笑うお客たちを眺めて過ごしていた。ある夜、遊園地にひとりの寂しげで不思議な女がやってきた。女はひとりでバンパー・カーに何度も乗りながら一向に楽しそうじゃない。興味を抱いたフェリックスだったが、ある日意外にも彼女の方から“遊園地で雇う気はない?”と尋ねられる。即座に採用を決めたフェリックス。女の名前はローラ。しかし、ローラはある日、不審な男の姿を見た瞬間逃げ出してしまった……。
しかしながら。
ルコントは、どうしてこんなにも、男女の心に機敏というか、ナイーブに接することができるのだろうか。
彼の作品はほとんど見たが、今回これを再視聴して、また感動した。
「愛は限りなく」からはじまり、音楽が良い映画は、B級映画でも大好きな私である。
ラストシーンの音楽は涙がでる。少し「ゴースト」に似ているかもしれないとふと、思う。
この「フェリックスとローラ」もまた、その音楽が、キーワードになっていて、最後のクライマックスへと、自然とつれさられ、納得というか、壮絶さに、映画のうえだが、なるほどと思い、男の愛への突進とはなんだろうかと考えさせられる。
男と女はまったく別の生物だ。だからこそ、魅惑的なんだけれども。
このような神秘的な、不思議な雰囲気は出そうと思って出せるものではない。
女優を調べるとなるほどと納得、腑に落ちる。
そして、一番嬉しかったのは、「メランコリア」に出ていたのである。
この「メランコリア」は、ふたりの姉妹の名前で二幕になっているのだが、
クレアという名前で出ていた。
まさに、彼女そのものだ。この発見が今日の一番のラッキーだ。
Le café... avec Charlotte Gainsbourg
シャルロット・ゲンズブール の可愛らしさがよく出ている・・・・クリップ。
2009年には、ホラーにも出ていて物議をかもした。
暴力シーンの少ないカソリック版と、そのままのシーンのプロテスタント版のふたつで、公開されたという。
◎資料
シャルロット・ゲンズブール
Charlotte Gainsbourg
シャルロット・ゲンズブール
Photo:AFLO
シャーロット・ランプリング (65才頃)/シャルロット・ゲンズブール(40才頃)/キルステン・ダンスト(29才頃)
■生年月日 : 1971/07/21
■出身地 : イギリス/ロンドン
■父親はミュージシャンであり監督の故セルジュ・ゲンズブール。母親は女優のジェーン・バーキン。幼い時から映画界に触れ、11歳の時、「残火」で映画デビュー。それを見たジェーンの現在の夫、ジャック・ドワイヨンによって「イザベルの誘惑」に出演。85年、「なまいきシャルロット」で初の主演を飾り、セザール賞の有望若手女優賞を受賞。以降、出演作が続く。一時、美術にも興味を示していたが、91年の父の死と共に女優に専念。94年には舞台でもデビューを飾った。またアルバム『魅少女シャルロット』でレコード・デビューもしている。97年、「愛を止めないで」で共演したイヴァン・アタルとの間に男の子を出産している。
◎資料その2
キャリア
俳優活動
母の出演映画の現場で早くから注目され、1984年の『残火』でカトリーヌ・ドヌーヴの娘役に抜擢され、映画デビュー。
1986年にクロード・ミレール監督の『なまいきシャルロット』でセザール賞の有望若手女優賞を史上最年少受賞(14歳)。1989年に『小さな泥棒』でセザール賞主演女優賞に史上最年少ノミネート(17歳)。2000年にダニエル・トンプソン監督の『ブッシュ・ド・ノエル』で最優秀助演女優賞を受賞。
自分と縁故関係のある人物の監督映画に出演することが多い。実父であるセルジュやパートナーであるイヴァン以外にも、母ジェーンの再々婚相手であるジャック・ドワイヨンや母方叔父であるアンドリュー・バーキンの作品にも出演している。
2009年にラース・フォン・トリアー監督の心理ホラー作品『アンチクライスト』で、衝撃的なヌード・シーンを含むヒロイン役を演じて、第62回カンヌ国際映画祭女優賞を受賞。
歌手活動
1984年、父セルジュとのデュエット曲「レモン・インセスト」で歌手デビュー。1986年には父のプロデュースで初のアルバム『魅少女シャルロット』をリリース[4]。以後は自身の主演映画で3度主題歌を歌っている。また、2003年にはエティエンヌ・ダオーのアルバム『Réevolution』にゲスト参加した。
2006年9月には20年ぶりのアルバム『5:55』をリリースし、ビッグセールスを記録している。
2009年12月にはアメリカのミュージシャンベックのプロデュースによる『IRM』を発売した。
2010年10月には単独来日公演も行った。
自分のために、母親ジェーン・バーキンの美しいクリップもコレクションしておきます。
Jane Birkin et Serge Gainsbourg - Je T'aime,...Moi Non Plus
彼女の方が、映画は見ているかも。
「太陽は知っている」アランドロンと共演しましたしね。
たしか、ロミー・シュナイダーの死がどうたらこうたらと・・・・
一番の感銘は、「美しき諍い女」
愛する彼、芸術家ーーバルドーと軽蔑に出ていたあの男優、名前は忘れましたが、彼が、昔は妻をモデルにして、絵を書いていたのに、それが、突然現われた、美しい女性の絵を書くために、その妻のキャンバスを塗りつぶしていくシーン。
その妻の役目を演じていました。
ジェーン・バーキンもまた、ものすごく目立つ、バルドーやドヌーヴやジェーン・フォンダのような女優ではありませんが、なにか、不思議で謎めいていて、知的で大好きです。
Gayle Tzemach Lemmon: Meet the first women to
考えさせられるクリップだ。
古来、男性原理が理想とした女性像は現代ではしだいにあせつつある。
そして、男も女もない、自分の魂の中からの叫びに素直に生きる男女が
増えつつある。
良いことなのか、悪いことなのか。わたしなどに判断なんかはできない。
かんがえさせられだけ。